司馬とノモンハン事件とは? わかりやすく解説

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司馬とノモンハン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:46 UTC 版)

司馬遼太郎」の記事における「司馬とノモンハン事件」の解説

詳細は「ノモンハン事件」を参照 歴史作家司馬は、1968年小説坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分戦時中学徒動員により予備士官として戦車第1師団戦車第1連隊配属され経験顧みて次の時代小説ではノモンハン事件取り上げよう考えて取材開始したノモンハン事件選んだ理由としては、この国境紛争司馬人生大きな影響与えたからとしている。 いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。昭和14年1939年)、私が中学の時でした。こんなばかな戦争をする国は、世界中にもないと思うのです。ノモンハンには実際に行ったことはありません。その後入った戦車連隊が、ノモンハン事件参加していました。いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうかということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということ最初疑問となりました。 — 「昭和」という国家 司馬は他にも「私ども部隊先祖といってもわずか四、五年前先祖だが)がこの凄惨な戦闘参加しこなごなにやられた」など、たびたび、自分所属した戦車第1連隊ノモンハン事件参戦していたと著作エッセー記述しており、司馬のもし自分5年前戦車第1連隊配属されていたら無残な戦死遂げたかも知れないという思いも、ノモンハン事件への強い拘り繋がったとする指摘もあるが、実際にノモンハン戦に投入されたのは、司馬配属され戦車第1連隊ではなく戦車第3連隊戦車第4連隊であった司馬は、防衛庁戦史室を訪ね協力取り付けて段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史秘蔵資料の提供を受けるなど 、50歳代10年渡ってノモンハン事件のことを取材調査しているが、その取材過程で、「もつともノモンハン戦闘は、ソ連戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本旧式歩兵とのと肉の戦いで日本戦車一台参加せずハルハ河をはさむ荒野は、むざんに日本歩兵殺戮のような光景呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式中戦車団が、雲霞のようなソ連BT戦車団に戦い挑んだのである」「(日本軍戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車鋼板カスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本八九式中戦車BT戦車小さくて早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくま戦場八九式死骸るいるい横たわった戦闘というより一方的虐殺であった」「ソ連軍日本軍前に縦深陣地作って現れた。(日本軍は縦深陣地理解しておらず)全兵力に近いものを第一線配置して絹糸一本の薄い陣容突撃した日本軍あたかも蟻地獄落ちていく昆虫のような状態に置かれた」などと考え、「その結果日本ノモンハン大敗北し、さらにその教訓活かすことなく2年後太平洋戦争始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説書けなくなった」などと、知人作家半藤一利後日語り、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件作品化断念した経緯がある。 しかし、日本軍八九式中戦車第2次ノモンハン事件中盤には既に日本内地帰還しており、事件のおわりごろになってやっと戦場到着したとする司馬認識事実誤認であり、また、1939年7月3日ハルハ川東岸での戦いで日本軍戦車第3連隊ソ連軍第11戦旅団ノモンハン事件最大戦車戦行ったが、ソ連側記録確認できる同日正午開始され戦車戦では、八九式中戦車ソ連軍BT-5を3輛撃破したに対して八九式中戦車損失は2輌(ソ連軍は4輌撃破主張)であり、互角上の戦いとなっている。その後戦車第3連隊ソ連軍速射砲戦車配置され陣地強攻し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破した報告している(ソ連側記録不明)。そもそもノモンハン事件においては日本軍戦車装甲車損失35輌(うち八九式中戦車16輌)であったのに対しソ連軍損失397輌(うちBT-5BT-7216輌)とはるかに大きく八九式中戦車ソ連軍戦車一方的に撃破されたというのも司馬事実誤認である。 また、ノモンハン事件戦闘で、敵軍陣地強攻して大損害を被ったのは、日本軍よりむしろソ連軍であり、ソ連軍大攻勢時にフイ高地ノロ高地などに日本軍構築した陣地強攻して大損害を被っている。井置栄一中佐率い第23師団捜索隊守ったフイ高地について、井置は速射砲陣地予備陣地を4~5個程構築し砲撃のたびに陣地変更して敵の攻撃をかわす巧妙なつくりするなど、逆に縦深陣地作り上げて強攻してきたソ連軍大損害を与えている。司馬認識とは異なりソ連軍ノモンハン多用したのは、縦深防御ではなく縦深攻撃であり、8月大攻勢時に威力発揮し第二次世界大戦でさらに進化し1944年6月開始されバグラチオン作戦がその集大成となったとされている。 司馬ソ連軍がほぼ損害受けていなかったと思い込んでたように示唆されているが、日本軍歩兵一方的に殺戮されたという説は、司馬ノモンハン事件取材進めていた1960年1970年代には明らかでなかったソ連軍情報公開される従い否定されている。 司馬戦後長野県上山田温泉温泉宿経営していた歩兵第26連隊長須新一郎元大佐知り合った連隊長解任経緯から軍中央の参謀不快感抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部批判的であった司馬意気投合している。須見は明確に日本陸軍作戦用兵に対して批判的であり、司馬小説構想うってつけの人であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説書こう決めて熱心に上山田温泉通いをしていた。1974年文藝春秋正月号で司馬参謀本部参謀伊藤忠商事副社長だった瀬島龍三対談し、それが記事となったが、須見は、エリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコ対談し反論せずにすませる作家信用できん」と激高し以後取材一切受ける気はないとする絶縁状送り付けたため、司馬ノモンハン事件小説が書くのが困難となってしまった。のちに司馬はこの時を振り返りもしぼくがノモンハンを書くとしたら血管破裂すると思う」と述べたモンゴル研究者の佐々木健悦は、司馬歴史認識は上からの視点で、ノモンハン事件書けなかったのは司馬知的怠慢知的不誠実さだと批判したうえに、モンゴル憲法についての記載間違っていると指摘した歴史学者秦郁彦は、司馬ノモンハン事件小説書けなかった理由として、下記4点をあげている。 司馬イメージにかなう主人公傍役を見つけられなかった。 国境紛争という中途半端な戦争形態戦車隊めぼしい戦果なしに、一週間ばかりで戦場去った五味川純平ノモンハン」など競合する先行作品出現した

※この「司馬とノモンハン事件」の解説は、「司馬遼太郎」の解説の一部です。
「司馬とノモンハン事件」を含む「司馬遼太郎」の記事については、「司馬遼太郎」の概要を参照ください。

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