永嘉の乱の前段階
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 07:51 UTC 版)
もともと後漢初期から匈奴が中国内地に扶植し始めていたが、後漢が有名無実化して三国時代になると、その混乱に乗じて并州(現在の山西省中部)や司州(現在の陝西省北部)に居住するようになった。西晋の時代になると山西省に定住していた匈奴ら異民族は漢人に使役されて農耕生活に従事する者も少なくなかった。またチベットからも氐族や羌族が涼州(現在の甘粛省方面)に居住するようになった。西晋内部ではこのような状況を憂い、重臣の郭欽や江統らが異民族を中国内地から徐々に追い出し、内地への出入りを厳しく制限するように提言したが、武帝や恵帝はこれを採用しなかった。 西晋では290年4月に武帝が崩御し、皇太子の司馬衷(恵帝)が第2代皇帝に即位した。しかし恵帝は暗愚で知られた人物で、武帝も一時は真剣に廃太子を検討したことがあった。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた皇太后楊芷の父楊駿が輔政の形で壟断した。これが後に西晋の根幹を揺るがした八王の乱の始まりのきっかけである。楊駿は2人の弟を要職に就けて一族で専横した。しかし恵帝の皇后の賈南風(賈充の娘)は楊氏の専横を憎み、禁軍の中にも楊氏一族に対する不満が高まった。賈后は291年に汝南王司馬亮と楚王司馬瑋と結託して楊駿を殺害した。しかし司馬亮は聡明で人望もあったため賈后は次第にこれを疎みだした。そこで司馬瑋を扇動して司馬亮を殺させ、その罪を全て司馬瑋に負わせて彼も殺害、こうして2人を除いて実権を掌握した>。その後は賈后と甥の賈謐による10年弱の専横が続くが、政治そのものは名士の張華や裴頠らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた。だが賈后は美少年を宮中に入れて淫行を繰り返し、299年12月、賈后は自らの実子ではない皇太子司馬遹を廃し、300年3月に殺害し、これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、300年4月に趙王司馬倫は斉王司馬冏と語らって賈后とその一派を殺して首都洛陽を制圧し、301年1月に恵帝を廃して自ら即位した。司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、また司馬倫は皇帝の虚名に酔いしれて一味徒党の誰彼に見境なく官爵を濫発したため、朝廷は乱脈政治が展開され、301年司馬倫は斉王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎により殺害されて恵帝は復位したが、これ以後皇族同士による血を血で洗う争いが延々と続き、国内は荒廃していった。 八王の乱自体は最終的に306年11月に東海王司馬越によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である懐帝司馬熾が第3代皇帝に擁立されることで終焉した。
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