永和年間(136年 - 141年)
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「順帝 (漢)」の記事における「永和年間(136年 - 141年)」の解説
永和元年(136年)正月、夫餘王が来朝した。10月に承福殿で火災が発生し、順帝は御雲台に避難した。11月、太尉の龐参が罷免された。12月、象林蛮夷が叛いた。元の司空である王龔が太尉になった。 永和2年(137年)正月、武陵蛮が叛き、充県や夷道を侵略した。2月、広漢属国都尉が白馬羌を撃破し、武陵太守の李進が武陵蛮を撃破した。3月、司空の王卓が死去し、郭虔が司空となった。5月、日南の蛮が叛いて郡府を攻撃した。7月には九真、交阯の2郡の兵士が反乱を起こした。8月、江夏の盗賊が邾県の長を殺害した。10月、順帝は長安に行幸して人民に施しをし、未央宮において三輔の郡守、都尉及官属と面会し労をねぎらった。12月には長安に戻った。 永和3年(138年)2月、京師および金城、隴西において地震が起きた。4月、九江の賊の蔡伯流が郡界を犯して広陵郡に至り、江都の長を殺害した。光禄大夫が金城、隴西に慰問に訪れ被害者をねぎらい、税の免除を告げた。閏月には蔡伯流らは衆を率いて徐州刺史の応志に降伏した。5月に、呉郡の丞の羊珍が反乱し、郡府を攻撃して太守の王衡を破り斬った。6月、九真太守の祝良、交阯刺史の張喬が日南の蛮を誘殺し、反乱を平定した。8月、司徒の黄尚が免職となった。9月、劉寿が司徒となった。10月、焼当羌が金城を侵攻し、護羌校尉の馬賢がこれを撃破したが、羌族の反乱は相次いだ。 永和4年(139年)正月、中常侍の張逵、蘧政、楊定らが罪を得て誅殺され、弘農太守の張鳳、安平相の楊皓もこれに連座し獄死した。4月、護羌校尉の馬賢は焼当羌を討伐し、これを大いに破った。8月、太原郡で旱魃が起き、民が離散したため、光禄大夫が使わされ施しと税の免除が布告された。10月、上林苑で狩猟がなされ、函谷関まで往還した。11月、広成苑に行幸した。 永和5年(140年)4月、南匈奴左部句龍大人の吾斯と車紐らが叛き、美稷を包囲した。5月、度遼将軍の馬続が吾斯と車紐を討伐し、これを討った。匈奴中郎将の陳亀が南匈奴の単于を殺害した。且凍羌が三輔を侵略し、県の令長を殺害した。9月、扶風と漢陽に発令して隴道塢を300か所に築き、屯兵を置かせた。太尉の王龔が罷免され桓焉が太尉となったが、その間にも且凍羌は武都を侵略し、隴関を焼いた。西河郡の居を離石とし、上郡の居を夏陽とし、朔方の居を五原とした。句龍の吾斯らは東の烏桓、西の羌胡を引き連れ、上郡に侵略し、車紐を単于とした。11月、使匈奴中郎将の張耽が使わされこれを撃破し、車紐らを降伏させた。 永和6年(141年)正月、征西将軍の馬賢は且凍羌と射姑山において戦ったが、敗死した。安定太守の郭璜が獄死した。閏月には、鞏唐羌が隴西を侵攻し、三輔にまで及んだ。3月、武威太守の趙沖は鞏唐羌を討ち、これを破った。司空の郭虔が免職となり、趙戒が司空となった。5月、匈奴中郎将の張耽が派遣され烏桓、羌胡を天山において大いに破った。鞏唐羌が北地に侵攻した。8月、大将軍の梁商が死去し、河南尹の梁冀が大将軍となった。9月、諸種羌が武威に侵攻した。10月、安定の居を扶風とし、北地の居を馮翊とした。11月、執金吾の張喬を車騎将軍代行とし、将兵を三輔に駐屯させた。
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