永和年間とは? わかりやすく解説

永和年間(136年 - 141年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:35 UTC 版)

順帝 (漢)」の記事における「永和年間(136年 - 141年)」の解説

永和元年136年正月夫餘王が来朝した。10月に承福殿で火災発生し順帝は御雲台避難した11月太尉の龐参が罷免された。12月象林蛮夷が叛いた。元の司空である王龔太尉になった永和2年137年正月武陵蛮が叛き、充県や夷道侵略した2月広漢属国都尉白馬羌を撃破し武陵太守李進武陵蛮を撃破した3月司空王卓死去し、郭虔が司空となった5月日南の蛮が叛いて郡府攻撃した7月には九真交阯の2郡の兵士反乱起こした8月江夏盗賊が邾県の長を殺害した10月順帝長安行幸して人民施しをし、未央宮において三輔郡守都尉及官属と面会し労をねぎらった12月には長安戻った永和3年138年2月京師および金城隴西において地震起きた4月九江の賊の蔡伯流が郡界を犯して広陵郡至り江都の長を殺害した光禄大夫金城隴西慰問訪れ被害者ねぎらい、税の免除告げた閏月には蔡伯流らは衆を率いて徐州刺史の応志に降伏した5月に、呉郡の丞の羊珍が反乱し郡府攻撃して太守の王衡を破り斬った。6月九真太守の祝良、交阯刺史張喬日南の蛮を誘殺し反乱平定した。8月司徒の黄尚が免職となった9月、劉寿が司徒となった10月、焼当羌が金城侵攻し、護羌校尉の馬賢がこれを撃破したが、羌族反乱相次いだ永和4年139年正月中常侍の張逵、蘧政、楊定らが罪を得て誅殺され、弘農太守張鳳安平相の楊皓もこれに連座獄死した。4月、護羌校尉の馬賢は焼当羌を討伐し、これを大い破った8月太原郡旱魃起き、民が離散したため、光禄大夫が使わされ施しと税の免除布告された。10月上林苑狩猟がなされ、函谷関まで往還した。11月、広成苑に行幸した。 永和5年140年4月南匈奴左部句龍大人の吾斯と車紐らが叛き、美稷包囲した5月度遼将軍の馬続が吾斯と車紐討伐し、これを討った匈奴中郎将陳亀南匈奴単于殺害した。且凍羌が三輔侵略し、県の令長を殺害した9月扶風漢陽発令して隴道塢を300か所に築き、屯兵を置かせた。太尉王龔罷免され桓焉太尉となったが、その間にも且凍羌は武都侵略し、隴関を焼いた西河郡の居を離石とし、上郡の居を夏陽とし、朔方の居を五原とした。句龍の吾斯らは東の烏桓、西の羌胡を引き連れ上郡侵略し車紐単于とした。11月使匈奴中郎将の張耽が使わされこれを撃破し車紐らを降伏させた。 永和6年141年正月征西将軍の馬賢は且凍羌と射姑山において戦ったが、敗死した。安定太守の郭璜が獄死した。閏月には、鞏唐羌が隴西侵攻し三輔にまで及んだ3月武威太守の趙沖は鞏唐羌を討ち、これを破った司空の郭虔が免職となり、趙戒が司空となった5月匈奴中郎将の張耽が派遣され烏桓、羌胡を天山において大い破った。鞏唐羌が北地侵攻した8月大将軍商が死去し河南尹梁冀大将軍となった9月諸種羌が武威侵攻した10月安定の居を扶風とし、北地の居を馮翊とした。11月執金吾張喬車騎将軍代行とし、将兵三輔駐屯させた。

※この「永和年間(136年 - 141年)」の解説は、「順帝 (漢)」の解説の一部です。
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