永吉の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 13:54 UTC 版)
「永吉 (鹿児島市)」の記事における「永吉の成立と中世」の解説
永吉という地名は「角川日本地名大辞典」によれば南北朝時代より見えるとされ、薩摩国鹿児島郡のうちであった。 「鹿児島市史」によれば鎌倉時代の文保2年(1318年)には薩摩国惣地頭職に補されていた島津氏の島津忠宗が島津貞久に対して「かごしまのこほり 同なかよし」を譲り、鎌倉幕府の安堵を受けたとされている。延文元年(1356年)に島津貞久は本領及び元弘以降の所領を安堵され、その本領のうちに鹿児島郡永吉地頭が含まれている。貞治2年(1363年)に貞久は譲状を作成し、鹿児島郡永吉村は氏忠に譲られた。 薩藩旧記雑録によれば安土桃山時代の天正20年(1592年)「薩隅日寺社領注文」には「永吉」という字が見え、同年の豊臣秀吉によって七町六反余が上地され、三町八反余が寺付と定められた。文禄4年(1595年)の「伊集院幸侃・本田三清連署宛行状」により本田助允に106石余が宛がわれ、残りを諸侍に割り当てられた。
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