永吉からの分立以降とは? わかりやすく解説

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永吉からの分立以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 14:01 UTC 版)

原良」の記事における「永吉からの分立以降」の解説

1920年大正9年10月1日鹿児島郡伊敷村大字永吉区域伊敷村より鹿児島市編入された。ただし、町としての設置編入から5年後となる1925年大正14年8月行われ永吉一部より分割され鹿児島市の町「原良町」として設置された。 第二次世界大戦中1945年昭和20年8月6日には原良町付近においてアメリカ軍による空襲が行われた(鹿児島大空襲)。1955年昭和30年)には原良町新設校として鹿児島市立原良小学校設置された。 1962年昭和37年)に原良地区では原良第一原良第二地区都市計画決定し原良第一地区永吉区域)は1988年昭和63年)、原良第二地区1995年平成7年)にそれぞれ土地区画整理事業着手した原良地区では土地区画整理事業の実施に対して根強い反対意見があり、住民は「原良地区区画整理事業対策協議会」を設立し実地測量阻止決議するなど事業の実施難航した1969年昭和44年6月集中豪雨によって造成であった原良団地土砂原良川に流入したことにより、かけごしの一帯土砂埋没する被害受けた1974年昭和49年)に原良川の改良工事実施された、改良工事によってかけごしから原良郵便局までにかけての区間暗渠化された。1976年昭和51年7月5日城西地区において住居表示実施されることとなった住居表示の実施に伴い町域再編実施され薬師町原良町の各一部より城西二丁目原良町一部より城西三丁目新たに設置された。 1979年昭和54年)には原良団地永吉団地区域に当たる小野町永吉町原良町の各一部において住居表示実施されることとなったこれに伴い7月16日町域再編実施され原良町永吉町の各一部より明和一丁目小野町原良町の各一部より明和二丁目設置された。 2007年平成19年2月5日に、原良第二地区において住居表示実施されることとなり、原良町及び城西二丁目一部より「原良一丁目」、原良町一部より「原良二丁目」、「原良三丁目」が新たに設置され原良町一部城西二丁目及び城西三丁目それぞれ編入された。2011年平成23年11月7日には原良西部地区住居表示実施され原良町一部より「原良四丁目」、「原良五丁目」、「原良六丁目」、「原良七丁目」が設置された。 2015年平成27年11月9日には、原良町及び薬師二丁目の各一部原良四丁目編入された。

※この「永吉からの分立以降」の解説は、「原良」の解説の一部です。
「永吉からの分立以降」を含む「原良」の記事については、「原良」の概要を参照ください。

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