いかにせよとて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
顕恋を忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ(大意:忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ) —今上御製、『続千載和歌集』恋一・1139 正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)は、有力公家の西園寺家の姫君である西園寺禧子と密かに駆け落ちし、禧子を適当な場所に匿って、そのまま何も知らない振りをして朝廷に出仕しようとした。しかし、翌年1月にはやくも事件は露顕して、一騒動になった(『花園天皇宸記』正和3年(1314年)1月20日条)。上の後醍醐本人の証言によれば、後醍醐は恋愛関係でポーカーフェイスを保つことができない性格だったという。
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