中世以降から五島藩の成立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:51 UTC 版)
「五島列島」の記事における「中世以降から五島藩の成立まで」の解説
その後、中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、鎌倉時代以降は松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。 宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。 1187年 松浦一族より宇久推定、宇久島にて宇久氏を名乗る。 1281年 5代目領主宇久競、元寇の役に出陣、軍功をあげる。 1351年(観応2年) 小値賀島と浦部島の一部を平戸領(松浦藩)とし、浦部島の大半を青方領(五島藩)とすることで和解した。 1381年(弘和3年) 8代目領主宇久覚が、宇久島から五島列島最大の島である福江島に居を移した。 1413年(応永20年) 五島各地に拠点を構えていた豪族により五箇条の規約を設けた「宇久浦中契約」が成立し、9代目領主の宇久勝が五島の党首に推され五島統一がなった 。 1540年(天文9年) 明の商人の王直が通商を求めて五島に来航し、領主の宇久盛定は、通商を許可して城下に居住地を与えた 。 また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。 このように、中世以降の歴史においても、大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。 五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は、中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。 その後、豊臣秀吉が九州平定を達成すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。 玉之浦納の反乱 宇久氏#朝鮮出兵における五島勢
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