中世以降の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:09 UTC 版)
木簡の盛期は8世紀末までで、文書木簡は10世紀より後になると見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、座の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、絵馬や卒塔婆に代表される宗教的な札は現代にもあるが、これらが木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。それでも、発掘調査で見つかると、現代のものも木簡として報告されることになる。
※この「中世以降の変化」の解説は、「木簡」の解説の一部です。
「中世以降の変化」を含む「木簡」の記事については、「木簡」の概要を参照ください。
中世以降の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:25 UTC 版)
中世以降は半人半鳥でなく、人魚のような半人半魚の怪物として記述されている。文献で確認できる鳥から魚への変化の最初の例は7世紀から8世紀頃の『怪物の書』と言われている。この変化が起きた理由として挙げられているものに、言語上の類似による誤解がある。ギリシア語では羽根と鱗は同じ πτερνγιον であり、またラテン語も羽根 pennis と鱗 pinnis はよく似ている。そこで下半身が羽根に覆われた姿から鱗に覆われた姿に変化したのではないかと考えられる。また北方の魚の尾を持つ妖精や怪物を呼ぶ際にセイレーンの語が当てられたという説もある。あるいは古代において海岸の陸地を目印に航海していたのに対し、中世に羅針盤が発明されて沖合を遠くまで航海できるようになったことから、セイレーンのイメージが海岸の岩場の鳥から大海の魚へと変化したためではないかと考えられている。この頃には、海でセイレーンに会ったという記述が旅行記に記されるようになる。 ゲーテの『ファウスト』などに登場し、怪物としての性格が強まった。後世には、人魚や水の精などとも表現されるようになり、西洋絵画においてはとりわけ世紀末芸術で好まれる画題となった。 セイレーンを描いた図像には、二又に分かれた鰭を備えた魚の下半身となっているものがしばしばみられる。20世紀のフランスの美術史家ユルギス・バルトルシャイティスによれば、セイレーンのこうした図像の構図は古代のアジアで既にみられており、アジア起源の構図がヨーロッパに伝えられてさまざまな図像で用いられたという。
※この「中世以降の変化」の解説は、「セイレーン」の解説の一部です。
「中世以降の変化」を含む「セイレーン」の記事については、「セイレーン」の概要を参照ください。
- 中世以降の変化のページへのリンク