中世以降の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:17 UTC 版)
中世後期以後、経済的に苦境に陥った朝廷では叙位議が開かれることはほとんどなくなった。これは叙爵や加階が行われなくなった訳ではなく、必要に応じて叙爵・加階対象者に個別に叙位の宣下を行ったために、一度に多数の人を同時に叙位するための手続が必要ではなくなったことを意味していた。 文明8年(1476年)1月、征夷大将軍足利義尚への叙位を行うために室町幕府の支援のもとに叙位議が開かれたことがあった。その時には十年労帳・巡爵申文・氏爵申文・年爵申文・外記勘文・入内勘文・加階申文の順序で審議が行われたが、実際には小折紙によって結果は既に決定済みであった(なお、年爵勘文は准后大炊御門信子からのもの、外位から内位への異動を勘文した入内勘文は実際には作成されなかった、また小折紙に織り込まれていない加階申文は全て却下された)。 その一方で、地方の大名などから献金を受ける代わりに高い位階を叙位するようになり、その傾向は江戸時代に入っても変わりが無かった。また、堂上家の増加とともに三位叙位者の数も急増した。元和6年(1620年)に三位以上を有していたのは39名(本来の律令法の規定に基づく官位相当の定員数では最大17名である)であったのが、天明年間以後は常時150名を超えていたとされている。その多くが新家の非参議や神職の叙位者であった。当然、四位・五位を授けられる公家(地下家を含む)・神職がそれ以上いた。その背景には、禁裏御料のみでは朝廷を維持することが難しく、叙位の見返りとして得られる金銭収入に朝廷財政が依存するところが大きかったことが背景にある。この傾向は僧侶の僧位や職人・芸能者の受領名の分野でも見られる現象である。しかも、ここで上げた数字の中には禁中並公家諸法度によって定員外とされた武家官位に基づく叙位が含まれていない。 武家官位は江戸城の徳川将軍家を中心とする秩序形成にとって、石高や譜代・外様などの格式と並んで重要な指標とされた。大名の中には幕府の中での秩序を上げるために幕府や幕閣個人に対する献金などを行ってより高い叙位を願い出る例も多かった。秩序とそれに付随する礼儀や上下関係による関係が重視された江戸時代において、公家・武家やその他を問わず、より高い地位を求める傾向が時代とともに強くなり、そのために莫大な金品が動かされることも珍しくなかったのである。
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