中世倭館とは? わかりやすく解説

中世倭館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:01 UTC 版)

倭館」の記事における「中世倭館」の解説

1392年成立した李氏朝鮮は、1368年成立した明とは異なり朝貢以外の商船入港禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限加えなかった。このため日本大名商人らが朝鮮通交する者が急増したが、彼らの中には交易不都合があると倭寇変貌するような者もいたので、朝鮮政府1407年国防上の見地から興利倭船入港地を慶尚左道都万所在地東莱富山浦現在の釜山広域市)と慶尚右道都万所在地金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した1410年日本使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。 当時朝鮮貿易大きな利権持っていた対馬早田左衛門太郎1426年慶尚左右各地任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府訴えたが、拒否され代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。 これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数日本人住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。 朝鮮半島居住し帰化しない日本人朝鮮では恒居倭と呼び首領を頭とする自治が行われた。恒居倭の中には倭館の関限を超えて居住する漁業農業従事する密貿易を行う、倭寇化する者もいた。当初朝鮮政府日本人には徴税検断権行使出来なかった為、彼等統制下に置こう圧力をかける1510年交易上のトラブルもあり朝鮮側に不満を募らせ日本人は、対馬からの援軍加えて大規模な反乱を起こす。この三浦の乱結局朝鮮側武力によって鎮圧され三浦倭館閉鎖されたが、後に一部再開された。

※この「中世倭館」の解説は、「倭館」の解説の一部です。
「中世倭館」を含む「倭館」の記事については、「倭館」の概要を参照ください。

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