中世初期のキリスト教哲学
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「中世哲学」の記事における「中世初期のキリスト教哲学」の解説
初期中世の前後の境界線に関しては論争がある。一般的にはヒッポのアウグスティヌス(354年 - 430年)に始まると言われるが、アウグスティヌスは厳密に言えば古典時代に属する。そして、初期中世は、盛期中世が始まる11世紀後半の学問の再興が始まり、続いて行く頃に終わるとされる。 西ローマ帝国の崩壊後、西ローマはいわゆる暗黒時代に陥った。修道院は数少ない正規の学術的研究の中心地のひとつだった。このことはおそらくヌルシアのベネディクトゥスの定めた戒律や、四旬節の始まる日にめいめいの修道僧に本を与えるという彼の提案の結果であろうと推定されている。その戒律では修道僧は毎日聖書を読むことになっていた。後の時代には修道僧は行政官や聖職者を養成するのに利用された。 初期のキリスト教徒は、特に教父時代には、直観的・神秘的で、理性や論理的議論に基づかずに考える傾向があった。また、時に神秘的なプラトンの教義を重視し、体系的なアリストテレスの思想をあまり重視しなかった。アリストテレスの著作の多くはこの時期西方では知られていなかった。学者たちはアリストテレスの『範疇論』、論理学関係の作品である『命題論』、そしてアリストテレスの範疇論の注釈書であるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』などに基づいて議論していた(いずれもボエティウスによって翻訳された)。 中世哲学の発展に大きな影響を与えたローマ時代の哲学者が二人いる。ヒッポのアウグスティヌスとボエティウスである。アウグスティヌスは最大の教父とみなされている。彼は主に神学者で祈祷文の作者であったが、彼の著作の多くは哲学的である。彼の主題は真理、神、人の魂、歴史の意味、国家、罪、そして救済である。1000年にわたって、神学や哲学に関するラテン語の著作で彼の著作を引用したり彼の権威に頼ったりしていないものはほとんどなかった。彼の著作の中には、デカルトのような近世哲学に影響を及ぼしたものもある。アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(480年 - 525年)はローマで古代から続く影響力の強い家に生まれたキリスト教哲学者である。彼は510年に東ゴート王国で執政官になった。彼の初期中世哲学への影響は注目されていて中世初期哲学が「ボエティウスの時代」呼ばれることもある。彼はアリストテレスとプラトンの全ての著作を原典の古代ギリシア語からラテン語へ翻訳しようとし、実際に『命題論』や『範疇論』といったアリストテレスの多くの論理学関連の著作を翻訳した。また、彼はそれらの作品や(それ自体『範疇論』の注釈である)ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』の注釈書を著した。これが中世西方世界に普遍論争を紹介した。 彼ら以降の中世初期は哲学が衰微した時代とされ、一部の有名な人物のものを除けばこの時代の哲学はしばしば専門家たちですら無視してきた。その原因は、この時代の思想家が哲学を主題として執筆することがなく、彼らの哲学的思索は専ら神学、論理学、文法学、自然学といった個別的な主題をもった論文に見いだされることにある。 西方における研究活動の最初の注目すべき復興は、カール大帝がピサのピエトロやヨークのアルクィンの助言を受けてイングランドやアイルランド(ヨーロッパ大陸での混乱を避けて学者たちがアイルランドへ逃げ去り、そこでラテン・ギリシア文化の伝統を護持したという説が歴史家たちによって唱えられたこともあった)の学者を招聘し、また、787年の勅令によって帝国内の全ての修道院に学校を併設させた頃に始まる。これらの学校(scola)はスコラ学派の名の由来となっており、また、中世の研究活動の中心地となった。 この時期の哲学的活動の中では、古代の著作を写すことが大きな比重を占めていた。アルクィンやその弟子たちの論議した内容を記録した一連の資料(いずれも同じ書き出しで始まっている資料の集まりなのでその書き出し『ウーシア・グラエケー Usia graece...』と言う名で言及される)の中のいくつかは完全に過去の作品の抄録・抜粋でしかない。 7世紀ごろから2世紀間にわたってアイルランド人が度々ヨーロッパ大陸に移住してきていた。その多くは僧侶で、各地に修道院を立てた。この潮流の中で9世紀になると彼らの中に卓越した学識を持った人物が現れた。その中でもマルティウス・スコトゥス、セドゥリウス・スコトゥス、そして次に述べるヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの三人のスコトゥスが最も大きな業績を残した(当時スコトゥス、スコット人とはアイルランド人を指した)。 ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(815年 - 877年)はアルクィンの後を継いで宮廷学校長となった人物で、アイルランド出身の神学者にしてネオプラトニズム哲学者である。彼は、当時、使徒の時代に生きたと考えられていた偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの著作を翻訳・注釈した。彼は、この訳書の献呈の辞で「エリウゲナ」と自称したのだが、これは「アイルランド貴族の子孫」と言う意味のギリシア語である。他にエリウゲナが訳したものとして、証聖者マクシモスの『アンビグア』および『タラシオスに対する問い』、ニュッサのグレゴリオスの『人間創造論』などがある。エリウゲナの自著『自然の区分について』(ラテン語羅:De divisione naturae)は、内容としては哲学書と言うよりも神学書であるが、先達よりもはるかに体系的・徹底的にネオプラトニズムとキリスト教を統合しており、後の中世哲学を方向付けた。エリウゲナの著作はその生前には無視される傾向にあったが12世紀の哲学者たちに大きな影響を与えた、という理解が通俗的に広まっている。しかし実際にはエリウゲナの同世代やすぐ下の世代の何人もの人物が著書中で『自然の区分について』を直接的にあるいは間接的にしており、逆に12世紀には、エリウゲナを熱愛するものはわずかにいるものの、目立った思想家のうちでエリウゲナから影響を受けたものはいなかった。 ところで、この時期には、神はある者には救済されることを、またある者には地獄に落ちることを運命づけているのかどうかといった教義上の論争が起こった。神学者・文法家・詩人のオルベのゴデスカールクス(英語版)(805年頃 - 866年/869年)がこの、神による予定には二種類あるとする説の唱道者であり、彼はアウグスティヌスの著述を根拠として自説を主張した。エリウゲナはこの論争を解決するために呼び入れられた。彼の著書『予定論 De praedesinatione』によれば、神の実体は一つなのだから神の実体の一部である予定や予知が二重であると考えるのは誤りであるという。また、この「神による予定」の問題はそもそも「予定」とよばれるのは適切でないと彼は言う。なぜならば、神は時間のうちにではなく永遠のうちに存在しているので、「予定」のような時間的先後性を想起させる術語は不適切なのである。さらにエリウゲナは、神が悪を創造したのではないことを示すために悪は善性の欠如だと規定するという、ネオプラトニズム(に影響を受けたボエティウスやアウグスティヌス)の説明を引用し、そのうえに自分の理論を構築した。しかし、その理論は独自性が高すぎるし極端なものであったために異端視されることになった。 エリウゲナの活動と同時期に、パスカシウス・ラドベルトゥスが聖餐におけるキリストの実体的現臨についての問題を提起した。ホスティアはキリストの歴史的な肉体と同一なのであろうか?どのようにして多くの場所、時節に現臨できるのだろうか?キリストの本当の肉体が現臨しているがそれはパンとワインという見かけに覆われていて、神の人知を超えた業によってあらゆる時間・場所に現臨するのだとラドベルトゥスは主張した。 この聖餐に関する問題について、11世紀の二人の思想家が論理学的方法を利用しつつ自説を主張した。トゥールのベレンガリウスは、聖別された後も物質としてのパンとワインは存続していると考え、聖体拝領において[A]「祭壇のパンとワイン」(Sと表す)は単に「聖体(パンとワインのまま)」(Pと表す)である、[B]祭壇のパンとワインは単に「キリストの体と血」(Qと表す)である、のどちらが正しいのかという論点に対して .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}もしも[A]ならばパンとワインは存在している 大前提1もしも[B]ならばパンとワインは存在している 大前提2しかるに、聖別の前後をともに考慮しても [A]か[B]のいずれかであり、それ以外はありえない 小前提 ゆえに、パンとワインは(常に)存在している 結論 という両刀論法をもって自説を論証した。これによって聖体は感覚的にはパンとワインとして存続するが、知性的には価値的に変化するのだと彼は述べた。彼の主張は、神の威力が知性にのみ及んで感覚的事物の領域には及ばないということを示唆するため、正統派信仰を守る者には受け入れがたいものであった。そのため、カンタベリー大司教のランフランクスがベレンガリウスを論駁することになった。ランフランクスはまず、ベレンガリウスが[A]か[B]かの二分法で考えたのに対して、「Sは、(1)Pかつ非Q、(2)非PかつQ、(3)PかつQ、(4)非Pかつ非Q」と可能な全ての場合を吟味した(これは両刀論法を覆すための正攻法として当時知られていたという)。ベレンガリウスが命題[A]・[B]において「単に(ラテン語羅:solummodo)」という言葉を加えていたのはそれぞれ(1)・(2)の場合を排他的に表すためである。ベレンガリウスが(3)PかつQの場合と(4)非Pかつ非Qの場合をほぼ無批判に排除したのに対して、ランフランクスは先述したように異端的であるベレンガリウスの考え[A]、(1)を排除し、誰も主張していないし正統派信仰に悖る[B]、(2)も排除した。ただしランフランクスは、ベレンガリウスの両刀論法に関して、全称命題としては「けっして成り立ちえない」と言っているが、それは「けっして真にはなりえない」ということではなく「ときとして真でない」ということを表している。最終的にどのような推論が正しいのか、ランフランクスは明言していないが、 形式として明らかに肯定命題であるのは前者であるから、ランフランクスが明言を避けながらもその背後で想定していたのは、肯定命題は、その一部分に誤りがあるならば、けっして成り立ちえない 大前提祭壇のパン(S)は聖体(P)であり、かつキリストの真の体(Q)である 小前提ゆえに <祭壇のパン(S)は聖体(P)であり、かつキリストの真の体(Q)である>はその一部分に誤りがあるならば、けっして成り立ちえない 結論 だとされる。正統派信仰の立場からは、先のベレンガリウスの推論の大前提1は物質的なパンとワインを、大前提2は外観にすぎないパンとワインを表していることになるとランフランクスは考えた。そのために「SはPかつQである」、つまりパンの概観を持つキリストの真の体が祭壇上に存在するという考えを信仰の上でも論理的にも正しいものとして擁護したのである。ベレンガリウスが論理学的手法にそぐわない分野で論理学的手法を用いているとランフランクスは批判したが、しかしここで議論されている事柄は論理学的手法によって最もよく説明できると認めて以上のような論駁を行った。古代にヒッポのアウグスティヌスが弁証術をもって異教徒を論駁したことを引き合いに出してベレンガリウスもランフランクスも議論を行った。 この時期には学問の復活も見られた。フローリアクム修道院においてオルレアン司教のテオドルプスがカール大帝に勧められて貴族の子弟のための学校を創設した。9世紀中ごろまで、そこに併設された図書館は西ヨーロッパに今まで集められた中でも最も包括的なもののひとつであって、ルプス・セルウァントゥス(862年ごろ)のような学者が訪れてここにある本で調べ物をした。後に、再建された修道院学校の学頭となったフルリのアボン(大修道院長988年 - 1004年)の下で、フローリアクムは第二の黄金時代を迎えることとなった。 10世紀初めに、オセールのレミギウスがアエリウス・ドナトゥス、カエサレアのプリスキアヌス、ボエティウス、そしてマルティアヌス・カペッラといった古典的なテキストの注釈書を著した。カロリング朝ルネサンスの後には小さい暗黒時代を挟んで11世紀以降続く学問の復興が起こった。11世紀の復興はギリシア思想の再発見をアラビア語に翻訳されていた文献やイブン・スィーナーの『霊魂論』のようなムスリムの功績に多くを負っている。
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