中世初期のキリスト教哲学とは? わかりやすく解説

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中世初期のキリスト教哲学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:15 UTC 版)

中世哲学」の記事における「中世初期のキリスト教哲学」の解説

初期中世前後境界線に関して論争がある。一般的にはヒッポのアウグスティヌス(354年 - 430年)に始まると言われるが、アウグスティヌス厳密に言えば古典時代属する。そして、初期中世は、盛期中世が始まる11世紀後半学問再興始まり続いて行く頃に終わるとされる西ローマ帝国崩壊後西ローマいわゆる暗黒時代陥った修道院数少ない正規学術的研究中心地ひとつだった。このことはおそらくヌルシアのベネディクトゥス定めた戒律や、四旬節の始まる日にめいめいの修道僧に本を与えるという彼の提案結果であろう推定されている。その戒律では修道僧毎日聖書を読むことになっていた。後の時代には修道僧行政官聖職者養成するのに利用された。 初期のキリスト教徒は、特に教父時代には、直観的神秘的で、理性論理的議論基づかず考え傾向があった。また、時に神秘的なプラトン教義重視し体系的なアリストテレス思想をあまり重視しなかった。アリストテレス著作多くはこの時期西方では知られていなかった。学者たちはアリストテレス『範疇論』論理学関係の作品である『命題論』、そしてアリストテレス範疇論注釈書であるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』などに基づいて議論していた(いずれもボエティウスによって翻訳された)。 中世哲学発展大きな影響与えたローマ時代哲学者二人いる。ヒッポのアウグスティヌスボエティウスである。アウグスティヌス最大教父みなされている。彼は主に神学者祈祷文作者であったが、彼の著作多く哲学的である。彼の主題真理、神、人の魂、歴史の意味国家、罪、そして救済である。1000年わたって神学哲学に関するラテン語の著作彼の著作引用した彼の権威頼ったりしていないものはほとんどなかった。彼の著作中にはデカルトのような近世哲学影響及ぼしたものもある。アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(480年 - 525年)はローマで古代から続く影響力の強い家に生まれたキリスト教哲学者である。彼は510年東ゴート王国執政官になった彼の初期中世哲学への影響注目されていて中世初期哲学が「ボエティウス時代呼ばれることもある。彼はアリストテレスプラトン全ての著作原典古代ギリシア語からラテン語翻訳しようとし、実際に命題論』や『範疇論』といったアリストテレス多く論理学関連著作翻訳したまた、彼はそれらの作品や(それ自体『範疇論』注釈である)ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』の注釈書著した。これが中世西方世界普遍論争紹介した。 彼ら以降中世初期哲学衰微した時代とされ、一部有名な人物のものを除けばこの時代哲学はしばし専門家たちですら無視してきた。その原因は、この時代思想家哲学主題として執筆することがなく、彼らの哲学的思索専ら神学論理学文法学自然学といった個別的な主題をもった論文に見いだされることにある。 西方における研究活動最初注目すべき復興は、カール大帝ピサピエトロヨークのアルクィン助言受けてイングランドアイルランド(ヨーロッパ大陸での混乱避けて学者たちがアイルランド逃げ去り、そこでラテン・ギリシア文化伝統護持したという説が歴史家たちによって唱えられたこともあった)の学者招聘し、また787年勅令によって帝国内の全ての修道院学校併設させた頃に始まる。これらの学校(scola)はスコラ学派の名の由来となっており、また、中世研究活動中心地となった。 この時期哲学的活動の中では、古代著作を写すことが大きな比重占めていた。アルクィンやその弟子たち論議した内容記録した一連の資料(いずれも同じ書き出し始まっている資料集まりなのでその書き出し『ウーシア・グラエケー Usia graece...』と言う名で言及される)の中のいくつかは完全に過去の作品抄録抜粋しかない7世紀ごろから2世紀間にわたってアイルランド人が度々ヨーロッパ大陸移住してきていた。その多く僧侶で、各地修道院立てた。この潮流の中で9世紀になると彼らの中に卓越した学識持った人物現れた。その中でもマルティウス・スコトゥス、セドゥリウス・スコトゥス、そして次に述べヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ三人のスコトゥスが最も大きな業績残した(当時スコトゥス、スコット人とはアイルランド人指した)。 ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(815年 - 877年)はアルクィンの後を継いで宮廷学校長となった人物で、アイルランド出身神学者にしてネオプラトニズム哲学者である。彼は、当時使徒時代生きた考えられていた偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース著作翻訳・注釈した。彼は、この訳書献呈の辞で「エリウゲナ」と自称したのだが、これは「アイルランド貴族の子孫」と言う意味のギリシア語である。他にエリウゲナ訳したものとして、証聖者マクシモスの『アンビグア』および『タラシオスに対す問い』、ニュッサのグレゴリオスの『人間創造論』などがある。エリウゲナ自著『自然の区分について』(ラテン語羅:De divisione naturae)は、内容としては哲学と言うより神学書であるが、先達よりもはるかに体系的徹底的にネオプラトニズムとキリスト教統合しており、後の中世哲学方向付けたエリウゲナ著作はその生前には無視される傾向にあった12世紀哲学者たちに大きな影響与えた、という理解通俗的広まっている。しかし実際にエリウゲナ同世代やすぐ下の世代何人も人物著書中で『自然の区分について』を直接的にあるいは間接的にしており、逆に12世紀には、エリウゲナ熱愛するものはわずかにいるものの、目立った思想家のうちでエリウゲナから影響を受けたものはいなかった。 ところで、この時期には、神はある者には救済されることを、またある者には地獄落ちることを運命づけているのかどうかといった教義上の論争起こった神学者文法家詩人オルベのゴデスカールクス(英語版)(805年頃 - 866年/869年)がこの、神による予定には二種類あるとする説の唱道者であり、彼はアウグスティヌス著述根拠として自説主張したエリウゲナはこの論争解決するために呼び入れられた。彼の著書予定De praedesinatione』によれば、神の実体一つなのだから神の実体一部である予定予知二重であると考えるのは誤りであるという。また、この「神による予定」の問題そもそも予定」とよばれるのは適切でないと彼は言う。なぜならば、神は時間のうちにではなく永遠のうちに存在しているので、「予定のような時間的先後性を想起させる術語不適切のである。さらにエリウゲナは、神が悪を創造したのではないことを示すために悪は善性の欠如だと規定するという、ネオプラトニズム(に影響受けたボエティウスアウグスティヌス)の説明引用しそのうえに自分理論構築した。しかし、その理論独自性が高すぎるし極端なものであったために異端視されることになったエリウゲナ活動同時期にパスカシウス・ラドベルトゥス聖餐におけるキリスト実体的現臨についての問題提起した。ホスティアはキリスト歴史的な肉体同一なであろうか?どのようにして多くの場所、時節に現臨できるのだろうか?キリスト本当肉体が現臨しているがそれはパンワインという見かけ覆われていて、神の人知を超えた業によってあらゆる時間・場所に現臨するのだとラドベルトゥスは主張した。 この聖餐に関する問題について、11世紀二人思想家論理学方法利用しつつ自説主張したトゥールのベレンガリウスは、聖別された後も物質としてのパンワイン存続していると考え聖体拝領において[A]「祭壇パンワイン」(Sと表す)は単に「聖体(パンワインのまま)」(Pと表す)である、[B]祭壇パンワインは単に「キリストの体と血」(Qと表す)である、のどちらが正しいのかという論点に対して .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}もしも[A]ならばパンワイン存在している 大前提1もしも[B]ならばパンワイン存在している 大前提2しかるに聖別前後をともに考慮しても [A]か[B]のいずれかであり、それ以外ありえない 小前提 ゆえに、パンワインは(常に)存在している 結論 という両刀論法をもって自説論証した。これによって聖体感覚的にパンワインとして存続するが、知性的には価値的に変化するのだと彼は述べた彼の主張は、神の威力知性にのみ及んで感覚的事物領域には及ばないということ示唆するため、正統派信仰を守る者には受け入れがたいものであった。そのため、カンタベリー大司教ランフランクスベレンガリウス論駁することになったランフランクスはまず、ベレンガリウスが[A]か[B]かの二分法考えたに対して、「Sは、(1)Pかつ非Q、(2)非PかつQ、(3)PかつQ、(4)非Pかつ非Q」と可能な全ての場合吟味した(これは両刀論法覆すための正攻法として当時知られていたという)。ベレンガリウス命題[A]・[B]において「単に(ラテン語羅:solummodo)」という言葉加えていたのはそれぞれ(1)・(2)の場合排他的に表すためである。ベレンガリウス(3)PかつQの場合と(4)非Pかつ非Qの場合をほぼ無批判排除したに対してランフランクス先述たように異端的であるベレンガリウス考え[A]、(1)を排除し誰も主張していないし正統派信仰悖る[B]、(2)も排除した。ただしランフランクスは、ベレンガリウス両刀論法に関して全称命題としては「けっして成り立ちえない」と言っているが、それは「けっして真にはなりえない」ということではなくときとして真でないということ表している。最終的にどのような推論正しいのか、ランフランクス明言していないが、 形式として明らかに肯定命題であるのは前者であるからランフランクス明言避けながらもその背後想定していたのは、肯定命題は、その一部分誤りがあるならば、けっして成り立ちえない 大前提祭壇パン(S)は聖体(P)であり、かキリスト真の体(Q)である 小前提ゆえに <祭壇のパン(S)は聖体(P)であり、かつキリストの真の体(Q)である>はその一部分誤りがあるならば、けっして成り立ちえない 結論とされる正統派信仰立場からは、先のベレンガリウス推論大前提1は物質的なパンワインを、大前提2は外観にすぎないパンワイン表していることになるとランフランクス考えた。そのために「SはPかつQである」、つまりパン概観を持つキリスト真の体が祭壇上に存在するという考え信仰の上でも論理的に正しいものとして擁護したのであるベレンガリウス論理学手法そぐわない分野論理学手法用いているとランフランクス批判したが、しかしここで議論されている事柄論理学手法によって最もよく説明できる認めて上のような論駁行った古代ヒッポのアウグスティヌス弁証術をもって異教徒論駁したことを引き合い出してベレンガリウスランフランクス議論行った。 この時期には学問復活見られた。フローリアクム修道院においてオルレアン司教のテオドルプスがカール大帝勧められ貴族の子弟のための学校創設した9世紀中ごろまで、そこに併設され図書館西ヨーロッパ今まで集められ中でも最も包括的なもののひとつであって、ルプス・セルウァントゥス(862年ごろ)のような学者訪れてここにある本で調べ物をした。後に、再建され修道院学校学頭となったフルリのアボン(大修道院988年 - 1004年)の下で、フローリアクムは第二黄金時代迎えることとなった10世紀初めに、オセールのレミギウスアエリウス・ドナトゥスカエサレアのプリスキアヌスボエティウス、そしてマルティアヌス・カペッラといった古典的なテキスト注釈書著したカロリング朝ルネサンスの後には小さ暗黒時代挟んで11世紀以降続く学問復興起こった11世紀復興ギリシア思想再発見アラビア語翻訳されていた文献イブン・スィーナーの『霊魂論のようなムスリム功績多く負っている。

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