初期中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:18 UTC 版)
初期中世のキリスト教著述家たちは、プトレマイオスやアリストテレスの著作には曖昧な印象しか持っておらず、プリニウスにより強く依拠していたが、地球平面説へ向かう気持ちをほとんど持っていなかった。 ローマ文明の終わりとともに西欧は中世に入り、大陸部の知的生産に大きな困難を抱えた。古典古代の(ギリシア語で書かれた)学問的論文のほとんどが利用不可能になり、単純化された概論や抜粋集のみが残された。しかし、初期中世の多くの教科書は地球球体説を支持していた。例えば: 初期中世に作られたマクロビウスの写本には世界地図が含まれるが、そのなかには対蹠地、球体説を前提としているプトレマイオスの気候区分図、惑星の秩序の中で地球(globus terrae、つまり「地の球」と名付けられている)が中心に位置すること、などが記載されている。そうした中世の図表を含む他の例は『スキピオの夢』の中世の写本に見いだされる。カロリング朝期には学者たちは対蹠点に関するマクロビウスの主張に関して議論していた。彼らのうち、アイルランドの修道士であるボッビオのドゥンガルは、自分たちの住んでいる可住地帯と南側にある可住地帯との間の熱帯酷暑地帯はマクロビウスが信じていたよりも狭いと主張した。 古代末期から中世初期までのヨーロッパ人の世界の形状についての考えは初期のキリスト教徒の学者達の著作に最もよく表されている: ボエティウス(480年頃 – 524年)、広く翻訳された『哲学の慰め』の他に、自分に影響を与えたマクロビウスの球形の時空の中心に地球が存在するというモデルを繰り返す神学論文『三位一体論』を著した。 セビリアのイシドルス(560年 – 636年)は広く読まれた百科事典『語源』中で地球は「車輪に似ている」という言葉の上ではアナクシマンドロスに似たものなどの多様な意見や彼が作成した地図を提供している。これは地球平面説に言及したものと広く解釈されている。イシドルスの『自然について』にみられる図には隣接した円として表される五つの地帯が描かれている。彼が北極圏と南極圏を互いに隣接するとみなしていたと結論付ける研究者もいる。彼は対蹠人の可能性に関して、それは地球の反対側に人が生きていることを意味するものとして認めず伝説上のものとして扱い、彼らが存在するいかなる証拠も存在しないと書いた。イシドルスのTO図は球状の地球のごく一部を表しているとみなされており、中世を通じて著述家たちに用いられ続けた。例えば9世紀の司教ラバヌス・マウルスは北半球の可住地帯(アリストテレスの北方気候帯)を車輪と対照させている。同時に、イシドルスの著作は球体説をも提供しており、例えば『自然について』第28章で太陽は地球の周囲を回っており、地球の一方が夜の時にはもう一方を照らしていると述べられている。『自然について』フランス語訳を参照。彼の別の著作『語源』では、天球の中心に地球が存在し空は地球上のどの位置からも等距離であるという説が肯定されている。その上他の研究者もこれらの点を主張している。「この著作は13世紀まで比類のない存在であり、あらゆる知の極致であるとみなされた。ヨーロッパの中世文化の欠かせない部分となったのである。活版印刷が発明されるとすぐに何度も印刷された。」 しかし、「スコラ学者 - 後期中世の哲学者、神学者、あるいは科学者 - たちはアラブの翻訳者・注釈者に助けられたが、初期中世(500年-1050年)のころから地球平面説の遺産に打ち勝つうえではほとんど助けを要しなかった。初期中世の著述家たちはしばしばプトレマイオスとアリストテレスの両者に曖昧で不正確な印象しか持っておらずプリニウスにより依拠したが、(一人の例外を除いて)彼らは平面説を前提としたくなる気持ちをほとんど持っていなかった。」 修道士ベーダ・ヴェネラビリス(672年頃 – 735年)はコンプトゥスを扱った影響力の高い論考『時間の計算』のなかで地球は球形である(「盾のように円形なのでも車輪のように広がっているのでもなく、ボールに似ている」)と述べ、季節による日照時間の違いを「地球が球形だからであって、聖典および一般の文献で『世界のオーブ』と呼ばれているもののためではない。実はそれは時空全体の中心に位置する球のようなものなのである(『時間の計算』, 32)。」 『時間の計算』の多数現存する写本はカロリング朝期に全聖職者がコンプトゥスを学ぶという必要に応じて作成されたものだが、全員ではなくとも多くの聖職者が地球球体説に触れたことを示している。エンシャンのアルフリクスはベーダを古英語に訳し、「さて地球が球形であることと太陽の軌道が全島で日照時間が同じであることを妨げているのである」と述べた。 ザルツブルクのウェルギリウス(700年頃 – 784年)、8世紀中頃に聖ボニファティウスが十分不愉快だと考えて教皇ザカリアスに訴え出た地理的・宇宙論的思想について議論している。この出来事の唯一現存する記録はザカリアスの返答に含まれ、748年のものである。彼はこう書いている: 「ウェルギリウスが神と自身の魂に背いて言い散らしている邪悪で罪深い教えはどうかといえば、―もし別の世界やあるいは別の太陽や月、地球の表面に住む別の人間がいると彼が公言するならば、汝は教会会議を開き、彼の聖職位を剥奪し、教会より追放するべきである。」 地球球体説はボニファティウスとザカリアスが不愉快だとみなしたウェルギリウスの教えの中に含まれるとみる権威者もいる。それはありそうもなく、ザカリアスの応答の言葉づかいはせいぜい対蹠人の存在への反対を示すに過ぎないと考える者もいる。どちらにせよ、ウェルギリウスに対してそれ以上の反応が起きたかどうかは記録に残っていない。その後彼はザルツブルク司教となり13世紀には列聖された。 文字ではなく視覚的に中世人が地球球体説を信じていたことを示せるものは諸王国や神聖ローマ帝国のレガリアにおけるオーブ(宝珠)の使用である。これは古代末期のキリスト教徒ローマ皇帝テオドシウス2世(423年)から中世まで証明されている; 「ライヒスアプフェル」がハインリヒ6世の戴冠式に用いられた。しかしオーブという言葉は円を意味し、西方では古代から1492年のマルティン・ベハイムまで地球を表すのに球が使われた記録がない。さらにオーブは世界全体、時空を表すために使われた。 中世の地球球体説に関する近年の研究では「8世紀以降、言及に値する宇宙論者で地球が球体であることに疑問を挟む者はいなくなった。」 ただし、これらの知識人の著作は大衆の意見に大きな影響を持たなかったかもしれず、一般大衆が世界の形状をどう考えていたか、そもそも彼らがそういう疑問を持つことがあったかは不明である。
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