古代末期論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 09:23 UTC 版)
しかし一方で、ローマ帝国衰退論を否定する古代末期研究の理解では、418年のガリア・アクィタニア属州のゴート族フォエデラティの境界発生以降に始まる、民族移動時代におけるゲルマン系王国の割拠による初期ヨーロッパの崩壊という事実を軽視しがちな傾向にあると指摘されている。 また、J. H. W. G. Liebeschuetz は2001年に「後期ローマ史における「衰退」概念の利用と濫用」論文において、「衰退」概念は必要であるとして、ブラウンやキャメロンらの古代末期論を多文化主義の流行を背景にしたものと批判した。また、古代末期研究は特殊イギリス的であるとの指摘もある。 これに対してキャメロンは、1970年代以来のブラウンの研究によって、「古代末期」の概念が強力なモデルとなり、宗教や文化の歴史への新しい理解を生み出していったし、従来の「古典古代」「中世」「ビザンツ」を厳しく峻別して道徳的審美的価値判断をふりかざすことなしに、価値判断をさける意味で「古代末期」は効果的であったと反論した。 J. H. W. G. Liebeschuetz は、ブラウンの業績は認めるものの、19世紀から20世紀初頭にかけて、美術史家アロイス・リーグル、宗教史の Richard Reitzenstein (リヒャルト・ライツェンシュタイン、1861-1931年)、文化哲学者オスヴァルト・シュペングラーなどはこの古代から中世までの時期を独自の価値を持つ時代とみなしていたし、Henri-Irénée Marrou (アンリ=イレネー・マルー)は「テオポリス(神の国)の時代」と提案するなど、ブラウン以前にも古代末期を重視していた研究があったと反論した。 南雲泰輔は、「後期ローマ帝国史」「初期ビザンツ帝国史」「西欧初期中世史」といった従来のカテゴリーをおしなべて包括する古代末期研究では広い視野で検討できることを評価しつつも、従来の概念と直ちに置換しうる新しい概念と考えることは困難であるとする。 また、R. Mathisen (マティセン)は、かつては後期ローマ・初期ビザンツ・初期中世・後期ラテン文学・教父学を専攻としていた研究者がいまやみな「古代末期」専攻となっているという。 また、近年ローマ帝国の東西分裂については「古代末期」批判と交差しながら再評価が行われ始めている。少なくとも行政組織の上では帝国東方では中央集権化された皇帝顧問会議を中心とするコンシストリウム政治が行われたのに対し、西方ではローマの政治的経済的中心性は急速に失われ、ローマ的価値観とは無縁なゲルマン人への権力集中をもたらすこととなり、著しい対照を示した。 ブライアン・ウォード・パーキンスは考古学的発見を含めてこの時代を広汎に振り返り、異教世界に対して一神教が地中海世界を制したという心理的精神的側面での「古代末期」の有意性は認めるものの、ローマ文明の物質的な凋落を俯瞰して、この時代を挟んだ前後の時代の不連続性を跡づけている。
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