古代末期の繁栄(4世紀~6世紀)
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「コンスタンティノープル」の記事における「古代末期の繁栄(4世紀~6世紀)」の解説
ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。落成式は330年5月11日に執り行われた。しかし、コンスタンティノポリスの建設は単に過去の皇帝たちが行ってきたのと同様な戦勝記念の恒例行事であって、「新ローマの建設」とか「ローマからの遷都」といったような大それた出来事ではなかった。当時、コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである。 建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた。東方で皇帝府が置かれていたのはアンティオキアであり、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった。この都市には首都ローマに倣って元老院が設置されることになるが、執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる[要出典])。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムスとされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリとみなされていた。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。 しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。コンスタンティウス2世は、359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた。テオドシウス1世は、380年にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における皇帝府の所在地として定着した。410年に首都ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫ってくると、テオドシウス2世は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、413年に完成させた。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され、首都ローマに倣って7つの丘も設定された。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。。 6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市にまで成長した。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。
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