後期ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 17:54 UTC 版)
ニコメディアは並立皇帝リキニウスがコンスタンティヌス1世に324年のクリュソポリスの戦い(英語版)(現:ユスキュダル)で敗れるまでローマ帝国の東の(そして上級の)首都であった。コンスタンティヌス1世はビュザンティオン(コンスタンティノープルと改称された)に新たな都市を建設した後も、ニコメディアを拠点していた。彼は337年にニコメディア近くの離宮で死亡した。コンスタンティノープルはその後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都の地位を確固たるものとしていくが、ニコメディアはコンスタンティノープルに繋がるアジアの交通路の収束地点という立地によって、その後も重要性を維持し続けた。 しかし、358年8月24日の大地震とそれに続く火災がニコメディアの大部分を破壊した。ニコメディアはより小規模な都市として再建された。6世紀、皇帝ユスティニアヌス1世の下で、新たな公共建築群が建設されニコメディアは拡張された。首都コンスタンティノープルへと続く街道上に位置するこの都市は主要な軍事拠点であり続け、イスラーム勢力に対するビザンツ帝国の遠征において重要な役割を果たした。 451年、現地の主教座はコンスタンティノープル総主教庁管轄下の府主教座(英語版)に昇格した。このニコメディア府主教座はNotitiae Episcopatuumにおいてコンスタンティノープル総主教庁に属する府主教座の中で序列第7位とされていた。8世紀、皇帝コンスタンティノス5世は746年から747年にかけてコンスタンティノープルでペストが流行して首都にいられなくなった際、しばらくの間ニコメディアに宮廷を置いていた。840年代から、ニコメディアはテマ・テマ・オプティマトイ(英語版)の首都となった。この頃までに、古い海岸部の町の大部分が放棄されており、ペルシア人地理学者イブン・フルダーズベはニコメディアが廃墟の中にあり居住地は丘上の城塞部に限られていると説明している。1080年代、ニコメディアはアレクシオス1世コムネノスによるセルジューク朝に対する遠征で重要な軍事拠点として機能し、第1回十字軍と第2回十字軍がこの都市で宿営した。 ニコメディアは1204年のコンスタンティノープル陥落(英語版)の後、一時ラテン帝国の支配下に入った。1206年の後半、セネスカル(英語版)のティエリー・ド・ルース(英語版)がここに拠点を築き、聖ソフィア教会を要塞に転用した。しかし、この拠点はニカイア皇帝(英語版)テオドロス1世ラスカリスによって絶え間ない襲撃を受け、この襲撃の中でド・ルースはニカイア兵によって捕らえられた。1207年の夏までにラテン皇帝アンリ(英語版)はド・ルースおよびテオドロス1世によって捕らえられていたその他の虜囚と引き換えにニコメディアを退去することに同意した。この後、ニコメディアは1世紀以上の間ビザンツ帝国の支配下に残留したが、1302年のバフェウスの戦い(英語版)での敗北の後には急成長するオスマン君侯国によって脅かされるようになった。ニコメディアは1304年と1330年の2度、オスマン帝国によって包囲され封鎖された。そして最終的に1337年にその軍門に下った。
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