中世初め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/05 07:59 UTC 版)
アーカートの名前は、7世紀の語形「エアチャーダン」(Airdchartdan)に由来する。「Airdchartdan」は、ゲール語の「air」(「そば」の意)と、古ウェールズ語の「cardden」(「木、茂み」の意」)からなる。中世初めの築城に特有のビトリファイドの石片が、20世紀初めにアーカート城で発見された。アーカート城は、北ピクト人の王ブライディ1世の要塞であったという仮説に基づき、レスリー・アルコック教授は1983年、発掘調査を行った。アイオナ修道院の修道院長アドムナンによる著作『聖コルンバの生涯』には、562年から586年にかけて、聖コルンバが何度かブライディ王を訪れたと記録されている。しかし地理の詳細はほとんど語られていない。アドムナンはまたこの訪問の際、聖コルンバが、死の床にあったピクト人貴族エムチャス(Emchath)と、その息子ヴィロレック(Virolec)、彼らの家族を、「エアチャーダン」と呼ばれる場所でキリスト教に転向させたと記録している。発掘品を放射性炭素年代測定法により調査し、城の南西角にある岩山は、5世紀から11世紀の広い砦の名残であることが明らかになった。この調査結果に基づきアーカート城は、居城のあるインヴァネスか西のクレイグ・ファドレイグに拠点を置くブライディ1世の要塞ではなく、エムチャスの住居であるとアルコック教授は結論付けた。
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