中世初期から盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 03:02 UTC 版)
「Kisingas」は763年の最も古いフライジングの公文書集にすでに記載されている。シャルニッツ修道院の創設者であるレギンパートは、当時まだ幼弱であった修道院に自分の遺産を寄贈した。当時フェルンパスに至るローマ街道がこの町周辺を通っていたかどうかは、明らかでない。修道院は聖ペテロに捧げられた。キッシングに現存するペータース教会も、その創設は中世初期に遡る。 955年にキッシングの町域でレヒフェルトの戦いの戦闘がなされた。ハンガリー人からの避難するための小規模な避難城塞が、現在のメルゲンタウ城近くのレヒフェルトに設けられた。 972年から976年の間にフライジングの家臣ヤーコプは「Kisinga」および「Salahahe」の所領を司教に贈与した。 1031年頃にフラインジングの公文書集の様々な記載に何度も登場する。1085年にハーバッハ修道院の文書に立会人としてアーダルベロ・デ・キッシンギンという人物が登場する。キッシングの貴族は現在の教区教会の近くに砦を構えていた。 この村はペータース教会教会を中心に発展していった。近くのフックスベルク(アイアーベルク)の上にはかつての城趾が遺されている。1200年頃からペータース教会の南により大きく、防衛機能を持つ教区教会の建設が始まった。 アウクスブルク司教ウーダルシャルクは1202年に亡くなる際、キッシングの所領を司教区に遺贈した。ウーダルシャルクはヴェルフェン家に近い、あるいはこの家の出身者の可能性もある人物で、1191年にそれまで所有者であったヴェルフェン家の人物が亡くなった際にこの所領を相続していたのであった。
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