中世前期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:16 UTC 版)
グレートブリテン島全土からは、緑色岩で作られた先史時代のグループ1として知られる石斧がおよそ400見つかっており、岩石学の分析によりこれは西コーンウォール産であることが分かっている。採石場はまだ確認されていないものの、ペンザンスの海岸からおよそ半マイル沖に沈んだギア (Gear) と呼ばれる岩盤がその地であるかもしれないと指摘されている。グレートブリテン島のあらゆる場所で多くの量が発見されることが、かなりの量の取引が行われていたことを示唆している。ペンザンスにおけるもっとも古い居住の痕跡は青銅器時代のものである。パルステイブ(英語版)、槍、ナイフ、ピンなどの多くの青銅器が、多くの陶器や木炭などとともにアルバートンの西のトレダーバーで新しい建物を建築する際に発見された。レスキュジャック要塞(英語版)として知られる防御用の土塁は、まだ発掘されていないもののほぼ鉄器時代に属するものとされる。一重の城壁が丘の上部の3エーカーほどを囲っており、東からこの地域への通行を支配している。1730年の時点のウィリアム・ハルズ(英語版)の報告では、これ以外に城壁がある兆候はなく、この場所は今では家庭菜園付きの家に囲まれている。ペンザンスの西のマウント・ミザリーには城壁と堀の跡があり、セント・ジャスト通りの上のリーシンギー (Lesingey) にある楕円形の城壁と堀もあって、レスキュジャック要塞とともにペンザンスおよびニューリンの海岸を監視している。 近年に至るまで、ローマ帝国が初期に短期間コーンウォールを支配していたこと以外にはほとんど根拠と言えるものがなかった。ナンスタロン(英語版)にある要塞が西暦54年から80年まで占領されていた。近年カルストック(英語版)にローマ時代の要塞が発見され、またレストーメル(英語版)のノーマン城付近の複合施設跡などから、西暦54年から3 - 4世紀ころまで東コーンウォールをローマが占領していたと暫定的ながら受け止められるようになっており、かつて考古学者が考えていたものよりローマの占領は大規模なものであったことが判明している。今までのところ、ペンザンスにおけるローマ人の証拠は以下の3つだけである。1899年8月に2枚のウェスパシアヌス(在位69年 - 79年)の硬貨がペンザンスの墓地の古い溝の中で発見された。この硬貨は、牛の骨とともに地面から8フィート下に埋まっていた。現在はペンリー・ハウス博物館にある。1934年にアルバートン地区から発見されたものは、コンスタンティヌス1世時代の硬貨とされており、やはり博物館に収められている。2000年頃に30 mmの1枚のセステルティウス硬貨がペンザンスの建物の跡周辺でみつかり、王立コーンウォール協会に贈られた。ポール地区のマラザイアン・マーシュ(英語版)およびケリス(英語版)では大量のローマ時代の硬貨が発見されているが、近くのチョイソースター(英語版)はこの時期ローマに占拠されていたものの、ローマ時代の植民地がこの地域にあったという証拠はない。 ペンウィス地区 (Hundred of Penwith) には古代の中心地コナートン (Connerton) があったが、現在はグウィティアン(英語版)のグウィティアン・トワンズの砂の下に埋もれている。ハンドレッド (Hundred) はサクソン人の行政単位で、さらにティシングス(英語版)に分けられていた。64コーニッシュエーカーの面積があるアルバートン荘園(英語版)は、ペンウィスの2番目に大きなティシングに名前を残している。この荘園にはマドロン、ポール、セント・ベリアン、サンクリードなどの一部が含まれる。 ペンザンスはドゥームズデイ・ブックには記載されていないが、おそらくこの地域も含まれているものと思われる。ドゥームズデイ・ブックによれば、1066年にアルワートン荘園はアルワードが所有していたが、ウィリアム1世の腹違いの兄弟、ロバート(英語版)に奪われたとある。アルワード (Alward) とトン (tun) という、個人名に町や入植地を表す語尾を組み合わせたものは、サクソン人の土地所有権を示している。コーンウォールでは、ヘルストン(英語版)やコナートンのようにトンは荘園の中心地を示している。1066年の所有権の変更は、ある外来領主から他の外来領主への変化であり、アルバートンという名前はペンザンスの西側、セント・ジョンズ・ホールからラリーガン川の西岸の住宅地までの範囲に残っている。
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