甘利荘の立荘と歴史とは? わかりやすく解説

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甘利荘の立荘と歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 04:13 UTC 版)

甘利荘」の記事における「甘利荘の立荘と歴史」の解説

甘利荘成立時期は不明であるが、平安時代後期藤原忠実日記殿暦天仁2年1109年10月11日によれば同年高陽院において行われた競馬忠実所有の「阿万利」の鹿毛出馬している。また、同書天仁2年9月26日条でも「甘利」の栗毛出馬しており、甘利荘忠実所領荘園あるいは牧として成立し中央への貢馬が行われていたと考えられている。 甘利荘に関する確実な初見史料は「平治元年五月宝荘厳院領荘注文」『東寺百合文書』で、宝荘厳院目録挙げられている12か所の荘園のうちに見られ、他の東国荘園同じく繊維製品白布)が貢上品に挙げられている。 平安後期天承元年1131年)には、常陸国から源義清清光親子甲斐国市河荘配流される。清光の子孫は甲府盆地各地進出し甲斐源氏の一族となった清光の子武田信義甲斐源氏棟梁となり、現在の韮崎市神山町武田の地に居館構えたという。 信義の子一条忠頼の頃には甘利荘拠り『尊卑分脈』によれば、忠頼の子・行忠が甘利氏称したといわれる江戸時代後期編纂された『甲斐国志』では、韮崎市旭町上條北割所在する大輪寺境内館跡としているが、境内にあたる大輪寺遺跡の発掘調査では戦国期遺物見られる中世前期まで遡る遺構遺物見られない治承4年1180年)から発生した治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族活躍し伊豆国源頼朝武家政権参加する『吾妻鏡』によれば元暦元年1184年)に一条忠頼鎌倉において頼朝謀殺され、行忠も処刑され甘利荘没収されたという。 その後甘利荘在地領主定かではないが、「武田福寿丸申状」『八坂神社記録』(紙背文書)に拠れば南北朝初期没収され石和御厨還付を願う武田政義の子武田福寿丸が、忠頼子孫に甘利荘還付されたことを先例として挙げている。甲斐一条氏は忠頼死後武田信光の子一条信長により継承された。信長神山町武田鎮座する武田八幡宮大般若経奉納しており、信長の孫・時信の子孫は戦国時代甲斐信濃の国境を防備する武川衆として配置されているなど当地との関わり深く甘利荘領有していた可能性考えられている。 鎌倉時代には本家宝荘厳院衰退したため、甲斐源氏支配脱していると考えられている。文永8年4月27日北条時宗下文紀伊三浦文書によれば鎌倉時代後期甘利荘北条得宗家領であったことを示しており、幕府執権北条時宗は「武田三郎入道妙意」を甘利荘南方地頭代任命している。このことから甘利荘においては荘園分割する下地中分が行われていたことが確認される戦国期文書には「甘利」を関した分割地名見られる地頭代の「武田三郎入道妙意」は「武田姓」を称していることから甲斐源氏の一族推定され通称三郎」を称していることから一条信長の子一条義長に比定する説がある。一方で、この文書では北条氏の命で武田氏人物地頭代任命されていることから、地頭北条氏で、得宗被官であった武田氏地頭代任命されたと解釈する説もある。さらに、得宗被官である武田氏としては通称三郎」を称している武田政綱武田信家存在しており、いずれかに該当するとする説もある。

※この「甘利荘の立荘と歴史」の解説は、「甘利荘」の解説の一部です。
「甘利荘の立荘と歴史」を含む「甘利荘」の記事については、「甘利荘」の概要を参照ください。

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