中世区分の導入とは? わかりやすく解説

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中世区分の導入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:25 UTC 版)

中世」の記事における「中世区分の導入」の解説

日本の歴史における古代中世・近代区分は、西洋歴史学モデルとした明治以降近代歴史学使い始めた。具体的には、1906年歴史学者原勝郎初めて「中世」の歴史区分用いた武家政権存在した期間にヨーロッパ中世騎士封建制主従制)・荘園制との類似点見出だし鎌倉幕府の成立(1185)から室町幕府滅亡1573年)まで、すなわち鎌倉時代室町時代戦国時代まで含む)を合わせたおよそ4世紀の期間を中世定義するのが一般的であった南北朝時代挟んで中世前期中世後期区分される。 ここに定義された「中世」は政治史的に武家政権幕府)による支配特徴としており、天皇政権朝廷)が全国統合していた古代大和時代奈良時代・平安時代)と区別された。また武家政権存在した時期でも、中世支配構造解体された後、強力な中央政権(あるいは連邦政権)によって新たな支配構造形成される近世安土桃山時代・江戸時代)を区別する平安時代末期中央朝廷)による支配諸国武士在地領主)の離反のために危機瀕していた。院政平氏政権による試み経て源頼朝所領安堵媒介とする武家の棟梁御家人主従制を、日本国惣地頭将軍)による地頭職補任形式をもって国制化し在地領主層の政治的統合一定程度達成した。これが中世国家における全国支配ありよう主要部分をなした(ただ在庁官人荘官などで地頭補任されず将軍主従関係持たない非御家人少なくなかった)。南北朝内乱過程で、守護軍事指揮権行使半済令などを足がかり任国における上級領主守護大名)へと性格改め守護領国制)、全国支配足利将軍の下の守護(および鎌倉公方九州探題など)が分掌する形に移行していった。守護所並存していた国衙権限侵奪され、国衙領公領)も守護領転換した公領荘園在地領主であった在庁官人荘官も、地頭御家人非御家人別な同質国人国衆)と呼ばれる存在になっていたが、守護はこれらの被官化に努めた。やがて室町幕府支配力縮小により、自立的権力としての性格強め守護守護代あるいは国人からも戦国大名化するものが広汎現れ全国支配は全く形骸化し織田信長豊臣秀吉による再統合天下統一)の時を迎えるに至る。

※この「中世区分の導入」の解説は、「中世」の解説の一部です。
「中世区分の導入」を含む「中世」の記事については、「中世」の概要を参照ください。

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