中世初期とビザンティン
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初期キリスト教はモニュメントのような宗教的彫刻に反対していたが、肖像の胸像や石棺のレリーフおよび執政官用ディプティクなどの小物でローマの伝統は続いていた。こうしたオブジェはしばしば貴重な素材で作られ、また(知られる限り)民族移動時代の主な彫刻の伝統であった。それは6世紀サットン・フーの埋葬宝物、スキタイ美術の宝飾品、インスラ美術のキリスト教と動物文様を組み合わせた造形物などに見られる。ビザンティンの伝統継承に続いてカロリング朝美術が象牙彫刻を復活させ、しばしば壮大な装飾写本の宝飾装丁用パネルのほか司教杖先端部や他の小型装具を復活させた。 ビザンティン美術は、素晴らしい象牙レリーフや建築装飾彫刻を生み出したが、モニュメント彫刻は一切復興することなく、丸彫りの小型彫刻もさほど復興しなかった。しかし、西洋ではカロリング朝とオットー家の時期に、宮廷や大きな教会でモニュメント像の生産が始まった。これは徐々に普及して10世紀末から11世紀までに、アングロサクソンの教会にはエッセン大聖堂の黄金マドンナ (Golden Madonna of Essen) のように木枠の周囲を貴金属で覆った明らかに等身大の彫刻が幾つか記録されている。アングロサクソンの例は現存しておらず、1000年以前の大きな非建築型彫刻の例は非常に稀である。最も秀逸なものがゲロの十字架像(965-970年)で、これは明らかに最も普遍的な彫刻だった。カール大帝は800年頃にアーヘンのパラタイン礼拝堂にひとつ(十字架彫刻を)設置した。これらは特にドイツとイタリアで普及し続けた。北欧世界のルーン・ストーン、スコットランドのピクティッシュ・ストーン、それから英国キリスト教のハイクロスも恐らく、キリスト教化時代を橋渡しした北方の伝統的彫刻である。 象牙の大天使像 (Archangel Ivory) 、525-550年。コンスタンチノープル カロリング朝後期の象牙パネル。恐らくブックカバーを意図したもの 『アルバヴィルの三連板』10世紀半ば。象牙製
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