鉱脈と鉱業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:39 UTC 版)
「バート・エントバッハ」の記事における「鉱脈と鉱業」の解説
この地方、ならびに町域の鉱業は長い伝統を有しており、古代にまで遡ることができる。ケルト人やゲルマン人はこの地方のドレライトの隙間から露出した赤鉄鉱(鉄を 70 % 以上含む)を、武器の製造に利用していた。鉱業は中世の間中を通してごく近年まで行われていた。ここでは沼鉄鉱を加工する製鉄業者 (Waldschmiede) がヴォンメルスハウゼンのヒュッテ集落に製鉄所を造った。この製鉄所が稼働したのは16世紀の初めから後半までの短い期間だけであった。1499年にこの場所は "Schyluckemoller uss der moelen uff der schmytten" と名付けられていた。この鍛冶屋の水車(ヒュットナー・ミューレ)はヴォンメルスハウゼンの製鉄所の先駆けとなった。その原石はヴォンメルスハウゼン、ボッテンホルン、デルンバッハからもたらされた。この製鉄所が閉鎖されると、たとえば1660年にヴォンメルスハウゼンの住民は、製鉄業を維持するために鉄鉱石をロートハイムのビーバー製鉄所に運ばなければならなかった。ボッテンホルンの鉱山は、1668年から1677年までビーデンコプフ近郊のルートヴィヒスヒュッテに多くの鉄鉱石が運ばれた。この時代の記録は、どの地区からどれほどの鉄鉱石がルートヴィヒスヒュッテに安価な値段で運ばれたかを記録している: ボッテンホルン 126 マース、ギュンテロート 102 マース、エントバッハ 100 マース、ハルテンロート 91 マース、シュリーアバッハ 45 マース、ヴォンメルスハウゼン 85 マース。鉄鉱石の輸送には牛車で1日以上かかった。 1849年のルートヴィヒスヒュッテの混練(高炉充填)の記録はたとえば、デルンバッハから6台の荷車分の鉄鉱石について記述されている。 現在の町域内の鉱山の広がりや重要性を以下に列記する。列記したのはよく知られた主な坑道だけである。残りの中世初期から盛期の数多くの無名な坑道は、その横坑口、坑やボタ山、あるいは地名の語尾に「坑」を意味する -kaute や -griww を遺すだけである。 ギュンテロートには、1775年から銅と鉛を、19世紀には重晶石をも産出した「アム・シェーンシャイト」がある。1977年から1982年までドイツ連邦地球科学・天然資源研究所は「アム・シェーンシャイト」に重晶石、銅、銀のための研究用ボーリングを行った。金属価格下落により拡充はなされなかった。 1674年から1878年までハルテンロートの「グリューナー・バウム」坑では銅や鉛鉱が採掘され、「アイゼンベルク」坑では1775年から1830年まで鉄、銅、ニッケル、亜鉛、マラカイトが採れた。ヘッセンはオーバーゲリヒト・アム・ブランケンシュタイン(オーバーゲリヒトは当時の行政区分)に1733年から5つの新しい鉱山を開発した。このうち2つがハルテンロートに、1つがヴォンメルスハウゼンに設けられた。1783年から「ヤーコプグルーベ」から銅鉱が、1800年から1846年までは「ヒルシュホール」坑と「ホルデ・アイントラハト」から銅鉱と亜鉛鉱が採掘された。この頃ハルテンロートに青銅の鋳造所が設けられた。1828年にはすでに重晶石が見つかっていたが、当初はその採掘は行われなかった。1884年からやっと「ビスマルク」坑で重晶石と銅が採掘されるようになった。この坑道は1957年まで採掘されていた。附属の晶石粉砕工場は、隣接するヴァレンフェルス(現在はジークバッハ町内)にある「コッペ」坑から産出した晶石も使っていた。ハルテンロートの重晶石鉱脈は、ドイツで最も重要なものの一つであり、最大180人の雇用者に仕事とパンを与えていた。 ボッテンホルンの「フェアゼーヌング」坑では1845年に鉄、銅、ニッケルの採掘が始まった。「クロイツベルク」では1845年から赤鉄鉱が産出され、1870年から重晶石鉱脈が見つかった。1956年に「バーバラ」坑がさらに設けられた。 デルンバッハでは、たとえばかつてのデルンバッハ / ヴォンメルスハウゼンの教会にあるヒンターミューレの高台「ルーレ・マルク」の坑道が示すように、鉄鉱石採掘は中世にまで遡る。この坑道では19世紀後半まで採掘が続けられた。1930年代にここで再び採掘が行えないか試掘が行われた。「エリーザベト」坑は19世紀半ばに鉄鉱石と重晶石の採掘を始めた。1920年代にデルンバッハの北に立て坑が掘られ、やはり晶石が採掘された。 ヴォンメルスハウゼンにも、かつてのヴォンメルスホイザー=ヒュッテのように中世にまで遡る鉱山があったことが分かっている。多くの地名の語尾に -griww(坑)が付くことがそれを示している。赤鉄鉱は現在でも多くの坑道跡で見ることができる。1654年から赤鉄鉱採掘は再び盛んになる。1733年にヘッセン方伯は新たな坑道を設けた。かつての坑道の多くは口伝えにその存在が伝えられている。名前が知られているのは「ラインボルン」坑だけである。ヒュッテ地区では、沼の近くにニッケル坑が短期間だけ設けられていた。 ここまで述べてきた坑道はいずれも、経済的理由により現在では採掘は行われていない。
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