調査の成果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:34 UTC 版)
突貫調査ではあったが 縄文時代中期の集落、弥生時代中期後半から後期末までの集落と方形周溝墓群、古墳時代中期後半から後期の円墳3基(朝光寺原古墳群)、都筑郡の郡衙の可能性のある奈良時代以降の掘立柱建物群が見つかった。 弥生時代中期の環濠集落は、直径170mの範囲に弥生時代中期後半の竪穴住居59軒が建てられ、その周りを幅2m、深さ1.5m~2mのV字形の溝が全長500mにわたって回り、鶴見川上流域初の環濠集落の発見となった。近くには方形周溝墓が19基あり、センター北駅前の大塚・歳勝土遺跡に集落と墓地の在り方が似ている。14軒の住居に火災跡が認められ、他集団との間で戦闘が起きたのではないかと解釈されてもいる。弥生時代後期前半になると環濠が埋まり、5軒ほどの住居しかない小村となる。この時期の510号住居から見つかった土器は、のちに「朝光寺原式土器」と呼ばれるものだった。弥生時代後期中葉には住居が20軒ほどに増え、再び大きな村とする。村の中心に大型住居が建てられ、その周囲に小型住居が建ち、有力者の存在が想定される。また方形周溝墓も5基見つかった。弥生時代後期終末になると、小型の住居16軒ほどの小村になる。古墳時代中期後半には権力者の墓地となり、朝光寺原古墳群1号墳~3号墳が作られ、武器や甲冑が副葬された。奈良時代以降になると、竈をもつ竪穴住居の集落とともに掘立柱建物が13棟建てられ、郡役所跡ではないかとみられている(現在考えられている都筑郡の郡衙遺跡は青葉区荏田町の長者原遺跡である)。
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