ポスト・ローマ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:08 UTC 版)
「ローマ・ブリトン文化」の記事における「ポスト・ローマ時代」の解説
当初、ブリタンニアの平野部や都市の住民は、ロンドン司教を中心に何らかの組織ないし評議会を形成していたと考えられているが、次第に政治的な分離が始まった。軍人、傭兵、役人、農民らが各々に王を名乗り、相争ったりブリテン島を後にして征服活動に取り組んだりした。彼らは、ローマの伝統を引き継ごうとするものと、完全に独立勢力を築こうとする者に二分された。このポスト・ローマ時代のブリトン人指導者としてよく知られているのが、ヴォーティガンである。他にも、かつてのブリタンニア属州の領域には北のスコットランドからピクト人、西のアイルランドからゲール人(スコット人)、東方からは異教徒のゲルマン部族であるアングル人、サクソン人、ジュート人(アングロサクソン人)が侵入し、定着するものもあった。一方で先住のローマ・ブリトン人の中にも、ブルターニュやイベリア北西部のスエビ王国、おそらくアイルランドへも移住する者がいた。 5世紀には、アングロサクソン人はイングランド東部を支配するようになった。6世紀半ばにはミッドランズにも進出し、7世紀には南西や北方へも勢力を拡大した。その中でウェールズはアングロサクソン人の手が届かず、ローマ・ブリトン人の文化、とくにキリスト教が生き残った。 アングロサクソン人の歴史上では、ローマ・ブリトン人を「ウェルシュ」(Welsh) と呼ぶことがあった。これは古英語で異邦人を意味するWalhazに由来する言葉で、もともとはブリテン南部の先住民を指していた。ローマ・ブリトン文化が生き残ったウェールズと南西半島(コーンウォール)は、それぞれ「北ウェールズ」「西ウェールズ」と呼ばれることもある。また同様にイングランド北部やスコットランド南部にあたるローマ・ブリトン文化地域はヘン・オグレッド(Hen Ogledd、「古き北方」の意)と呼ばれた。 この時代のブリトン人やアングロサクソン人をめぐる闘争は、ユーサー・ペンドラゴンやアーサー王の伝説に反映されていると言われている。彼らのモデルはローマ・ブリトン人の指導者アンブロシウス・アウレリアヌスであるとされることもあるが、こちらも伝説的な人物である。またアーサー王の宮廷のあった都キャメロットの物語は、ウェールズやコーンウォールに残っていたローマ・ブリトン文明の記憶が反映されたものであるとも考えられている。
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