戦国・桃山~築城開始から破却へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 01:10 UTC 版)
「平戸城」の記事における「戦国・桃山~築城開始から破却へ」の解説
下松浦党(平戸氏・峯氏とも)の棟梁である松浦鎮信(法印)は時節を読み、豊臣秀吉の九州平定に加わり、壱岐守護を称する波多氏に代わり松浦郡(ただし一円ではない)と壱岐一国の所領を安堵された。松浦党で最大の大名となった事により、以降は松浦姓を名乗ったとされる。 文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)に現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる。 完成も間近となった慶長18年(1613年)、火災により大半を焼失した。自ら火を放ち城を破却したとも言われているが、理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。火災後、藩は再建をせず、平戸港を挟んだ北側(現・平戸市鏡川町)に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした。ここには明治時代には旧藩主松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦史料博物館となっている。このことにより、国主それも肥前と壱岐にまたがる二国支配でありながら、平戸藩は「城」を持たない、いわゆる陣屋大名であった。
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