中村氏 (下野国)
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中村氏(なかむらし)は、藤原北家山蔭流・藤原実宗が天永2年(1111年)に常陸介に任命され常陸国の伊佐荘中村に住し中村氏を称したことに始まる。[1]伊達氏の祖とされ、常陸国伊佐郡の伊佐氏とは同族。戦国時代までは下野国の中村城を拠点とし、戦国時代以降は宇都宮を拠点とした一族。
- ^ 丸に剣片喰(まるにけんかたばみ)は、日本の家紋「片喰・酢漿草(かたばみ)紋」の一種である。
- ^ 『尊卑分脈』では藤原朝宗。
- ^ 中村郷土史・芳賀郡南部郷土誌では朝宗の子・宗村、伊達氏側史料では朝宗とされる。また『伊達氏と中村八幡宮』では、伊達氏の始祖が宗村では『尊卑分脈』の藤原朝宗に系図を繋げられないから、中村常陸入道念西を朝宗としたのではないかとの説を掲げている[10]。
- ^ 『吾妻鏡』は、念西の次男を常陸次郎為重とする。ただし、中村郷土史・芳賀郡南部郷土誌では念西は宗村とされているので矛盾はしていない
- ^ 源義経の子という伝承がある。
- ^ 『中村沿革』によると伊達行朝は伊佐城が高師冬に攻め込まれたさいに討ち死にしたとされている。
- ^ 水谷側の資料「水谷蟠龍記」には父の治持が玄角を討取ったとあり、「寛政重修諸家譜」の治持の譜文に、猿山の合戦後、中村十二郷が結城・水谷領になったとある。猿山合戦は大永6年(1526年)であるので、この年が廃城と考えられる。
- ^ 地元遍照寺 (真岡市)の口伝では時長は伊達氏を頼って米沢へと逃れた中村日向と名乗ったとあるが、伊達治家記録によると家臣として記録される伊達氏家臣中村日向家は伊達家家臣として5代目まで新田の姓を名乗り6代目の中村日向成義に至り4代藩主伊達綱村に元禄3年9月招かれ中村の姓と雲次の佩刀を拝賜と記録されており「性山公(輝宗)治家記録」の功「今新田ヲ称スル事ヲ憚リ玉イテ元ノ御氏中村を賜フ」とあり、中村日向守小太郎時長と、新田氏族の後の中村日向が同じ中村であるが故に中村日向と混同して伝わったと考えられる
- ^ 中村家は平成30年(2018年)現在、宇都宮市松原で存続している。
- ^ 宇都宮市の戸祭山にある中村氏の舘からは鬼門の位置に当たる曹洞宗の寺院。
- ^ 2017年現在、中村氏は松原(旧戸祭村)に存在し館跡は栃木放送の駐車場の一部になり正門や神社、石倉の一部の遺構のみが残ってる。
- ^ 『新編常陸国誌』や『梁川八幡神主菅野氏系譜』『梁川町史』5所収、梁川八幡神主菅野氏系譜
- ^ 『尊卑分脈』。ただし前田本では従四位上とする。
- ^ 茨城県教育委員会 伊佐城址
- ^ 『梁川町史』5所収、梁川八幡神主菅野氏系譜
- ^ 真岡市史第6巻真岡地方の寺社「伊達氏発生伝説の世界」
- ^ 真岡市史案内6号P139「伊達氏発生伝承」
- ^ 真岡市史案内第4号P71「中村城」
- ^ 真岡市史案内第4号P67「中村城」
- ^ 栃木県の家紋と姓氏(日本家紋研究会)P46「中村氏」、栃木県立図書館所蔵資料
- ^ 中村八幡宮 1989, p. [要ページ番号].
- ^ 『下野史談』第1巻第6号「中村郷土史」P15
- ^ 『下野史談』第1巻第6号「中村郷土史・中村」の項 P15-16
- ^ 真岡市史案内第4号・P69「中村城のこと」
- ^ 福田勝美著/戸祭元町今昔 宇都宮市立中央図書館所蔵資料宇都宮市立図書館資料詳細書誌番号:2402011
- ^ 福田勝美著/戸祭元町今昔「戸祭元町中村家」 宇都宮市立中央図書館所蔵資料宇都宮市立図書館資料詳細書誌番号:2402011
- ^ 第7回衆議院議員総選挙栃木地区
- ^ 近代系図 船田元
- ^ [1] 衆議院 第155回国会 農林水産委員会 第4号(平成14年11月7日(木曜日))
- ^ 真岡市史案内第4号・P73「中村氏の墓所」
- ^ 伊達氏の源流の地P78「中村小太郎神社・中村大明神」
- ^ 真岡市遍照寺公式サイト 真言宗如意山寶珠院遍照寺記念物詳細
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