史実に基づく沿革
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「中村城 (下野国)」の記事における「史実に基づく沿革」の解説
「長沼文書」の建武2年(1335年)4月10日付け後醍醐天皇の綸旨の中に「中村庄地頭小栗掃部助重貞」とある。元弘3年(1333年)5月9日に六波羅探題北条仲時が自害したとき、伊佐治部丞等も自害している(『太平記』)ので、このときと考えられる。 応安元年(1368年)には宇都宮氏綱が鎌倉に反対して敗れ、本領が3分の1になった(『鎌倉大日記』)とあり、このとき中村庄は結城領になった。そして、永享12年(1440年)の結城合戦の結果、再び宇都宮領になったと思われる。 天文13年(1544年)10月7日に水谷蟠龍斎正村によって中村日向入道玄角が攻落された(『中村沿革誌』)とする説がある。しかし、「水谷蟠龍記」には父の治持が玄角を討取ったとあり、「寛政重修諸家譜」の治持の譜文に、猿山の合戦後、中村十二郷が結城・水谷領になったとある。猿山合戦は大永6年(1526年)であるので、この年が廃城と考えられる。 同年、宇都宮尚綱は武田治部大輔信隆に中村城奪回のために水谷正村の本拠久下田城を攻めさせたが、城を奪い返すことはかなわず、中村領は水谷氏の領地となった。中村城はその後廃城になったが天正14年(1586年)に、水谷正村は宇都宮国綱の家臣今泉泰光の上三川城へ攻め込み敗退し、結城晴朝が、中村領の寺内、若旅、加倉、粕田、寺分、下大沼、上大沼、柳林、勝瓜、長田、伊勢崎、小橋、大和田、上下西金井、高間木、亀山を宇都宮領とする条件で和睦を申し出、旧領復帰を果たしている。
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