史実による『大丸屋騒動』
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「大丸屋騒動」の記事における「史実による『大丸屋騒動』」の解説
この噺のモデルとなった事件の資料として、当時の官憲の報告書のコピーが「安永三甲午七月三日夜京都烏丸通上る町大文字屋彦右衛門疳症にて人を多く怪我させし趣御公議へ書上の写」として西沢文庫「讃仏乗」二編中の巻におさめられている。 あらましは、1773年(安永三年)7月3日の夜、烏丸通りの材木商大文字屋の息子彦右衛門(25歳)が、新河原町の家で養生中に心神喪失状態となり手代を殺害、四条通に出て烏丸通りから丸太町の間にかけて「往来の人を切殺し又は手疵負せ右道筋につなぎ置き候馬迄三疋に瑕附候」、死者三名、重軽傷者二十一名という大惨事であった。凶器は「脇差、銘粟田口近江守忠納 長二尺三寸」で、その後、彦右衛門は帰宅後死亡したとある。 その後、事件は講釈、歌舞伎などに取り上げられ、落語にもなった。
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