史実における焦土作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 04:48 UTC 版)
紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世がスキティア(スキタイ)遠征を起こすと、スキタイ側は、南ロシアの街や村を焼き払い、食料の現地調達が不可能となったペルシア軍は撃退された。 紀元前1世紀中葉のローマの将軍カエサルによるガリア侵略に対し、ガリアの族長ウェルキンゲトリクスは町を破壊し、田野を焼き払ったが(アウァリクム包囲戦)、焼き払い損ねたアウァリクム(現ブールジュ)がローマ軍によって食糧基地として利用され、アレシアの戦いでウェルキンゲトリクスは決定的な敗北を喫し、ローマに降伏した。 ワラキア公ヴラド・ツェペシュのオスマン帝国との戦い(1462年)。ヴラド・ツェペシュはゲリラ戦を併用した焦土作戦でメフメト2世率いるオスマン帝国の大軍を苦しめ、撤退に追い込んだ。 戦国時代には敵国の食料を枯渇させる目的で収穫前の田から穂を刈り取る「青田刈り」が戦術として行われていた。 文禄・慶長の役において、朝鮮側が日本軍(豊臣秀吉の軍)の補給路を根絶するために行った。 ダンバーの戦いでスコットランドは首都エディンバラに進軍してくるイングランド共和国軍に対して焦土作戦を行い、補給を困難にさせた。 大北方戦争。ロシア軍の焦土作戦と、厳冬(冬将軍)によってスウェーデン軍は敗退した。 サリバン遠征 アメリカ大陸軍はインディアンが居住できなくなるよう集落、田畑を焦土化した。 海への進軍 南北戦争終盤、北軍のシャーマン将軍は、南部連合の早期降伏を目指して、南部連合中心州のジョージア州のアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまでの主要部を焦土化する破壊進撃を実施した。 ナポレオンはロシア遠征においてモスクワに侵入したが、炎上する町をあとに撤退を余儀なくされた。ただしこれが焦土作戦であったかは、議論が分かれている。 アルジェリア侵攻でフランス軍司令官トマ・ロベール・ブジョーはアルジェリアの村や畑を焼き払う焦土作戦を行った。 アンドリュー・ジャクソンによる「セミノール戦争(インディアン戦争)。アメリカにおける初の焦土作戦とされ、「インディアンのベトナム戦争」とも呼ばれている。また、キット・カーソンは、対ナバホ族戦で焦土作戦を使用している。 ボーア戦争。ボーア人のゲリラ戦に対し、イギリス軍は焦土作戦と強制収容所で対抗した。 尼港事件において赤軍パルチザンは日本軍がニコラエフスクを利用できないよう住民を殺戮して町を焼き払った。 日中戦争において日本側には三光作戦、中国側は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を度々用いた。長沙大火はその一例ではあるがこの際は流言に惑わされ長沙の町を意味なく焼き払ってしまった。また黄河決壊事件も焦土作戦と言われることがある。 第二次世界大戦の独ソ戦において赤軍は撤退にあたり敵軍の利用価値のあるものを壊した。またドイツ軍も同様に撤退にあたり敵軍の利用価値のあるものを壊した。さらに総統アドルフ・ヒトラーにより、ドイツ国内における産業施設の破壊命令(ネロ指令)も出されているが、一部施設は、独断で命令を無視した軍需大臣アルベルト・シュペーアのために破壊を免れている。 冬戦争において戦力的に劣勢であったフィンランド側が大多数の赤軍を相手に行った戦術の一つ。ゲリラ戦術、遅滞戦術と共に使用し大粛清後で組織的に衰弱していたソ連軍に多大な被害を与えた。
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