アメリカ連合国
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アメリカ連合国(アメリカれんごうこく、英語: Confederate States of America, 略号:CSA)は、1861年から1865年まで存在した北米の未承認共和国である[1][2][3]。1861年に分離独立を宣言してから、南北戦争でアメリカ合衆国と争ったが、1865年に降伏してアメリカ合衆国に再び併合された。
注釈
- ^ a b ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世はイギリス女王のヴィクトリアの王配アルバートの兄であったことから、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国によるCSAの承認自体がイギリスと連携した合衆国牽制の意思表示と見なされていた。
- ^ その法案に反対した議員の一人は「黒人が我々(白人)と同じように戦えると言うのであれば我々は何のために戦っているのか!」と言っている。黒人は白人より人種的に劣っているから奴隷にしても問題ない(と言うよりその方が黒人にとって幸せである)という南部の大前提が崩れてしまうからである。
- ^ 北部の方では終戦までに18万から20万もの黒人が北軍に入隊しており、一部の部隊は重要な戦闘にも参戦している。最初はそれぞれの州や将軍が独自に編成していたものだったが、数が増えてきたので1863年の5月22日に有色人種将兵局 (Bureau of Colored Troops) が新たに設置されている。
出典
- ^ Editors (1998年7月20日). “Confederate States of America”. Encyclopædia Britannica. 2019年6月25日閲覧。
- ^ Arrington. “Industry and Economy during the Civil War”. National Park Service. 2017年4月27日閲覧。
- ^ 国家承認したのはザクセン=コーブルク=ゴータ公国のみ。
- ^ a b Arrington, Benjamin P.. “Industry and Economy during the Civil War”. National Park Service. 2017年4月27日閲覧。
- ^ Editors (1998年7月20日). “Confederate States of America”. Encyclopædia Britannica. 2019年6月25日閲覧。
- ^ M. McPherson, James (1997). For Cause and Comrades: Why Men Fought in the Civil War. New York City: Oxford University Press. pp. 106. ISBN 978-0195124996. "Confederate soldiers from slaveholding families expressed no feelings of embarrassment or inconsistency in fighting for their own liberty while holding other people in slavery. Indeed, white supremacy and the right of property in slaves were at the core of the ideology for which Confederate soldiers fought."
- ^ Stephens, Alexander (1998年7月). “Cornerstone Speech”. Fordham University. 2019年6月25日閲覧。
- ^ McPherson, James M. (2007). This mighty scourge: perspectives on the Civil War. Oxford University Press US. p. 65. ISBN 9780198042761
- ^ Thomas, Emory M. The Confederate Nation, 1861–1865 (1979) pp. 256–257.
- ^ “Learn – Civil War Trust”. www.civilwar.org. 2017年8月27日閲覧。
- ^ Hacker, J. David (2011年9月20日). “Recounting the Dead” (英語). Opinionator. 2018年5月19日閲覧。
- ^ Davis, Jefferson (1890). Short History of the Confederate States of America. Belford co.. p. 503 2015年2月10日閲覧。
- ^ David W. Blight (30 June 2009). Race and Reunion: The Civil War in American Memory. Harvard University Press. p. 259. ISBN 978-0-674-02209-6
- ^ “PRIDE OR PREJUDICE? Racial Prejudice, Southern Heritage, and White Support for the Confederate Battle Flag” (英語). academia.edu. p. 7. 2019年9月13日閲覧。
- ^ Ogorzalek, Thomas; Piston, Spencer; Strother, Logan (2017). “PRIDE OR PREJUDICE?: Racial Prejudice, Southern Heritage, and White Support for the Confederate Battle Flag” (英語). Du Bois Review: Social Science Research on Race 14 (1): 295–323. doi:10.1017/S1742058X17000017. ISSN 1742-058X.
- ^ Richard Roll, "Interest Rates and Price Expectations during the Civil War", Journal of Economic History 32, Jun. 1972; George K. Davis and Gary M. Pacquet, "Interest Rates in the Civil War South", Journal of Economic History 50, 1990.
南部連合
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「ジョージ・デイヴィス (アメリカの政治家)」の記事における「南部連合」の解説
1861年2月、デイヴィスはノースカロライナ州の連邦離脱に先立ち、ワシントン講和会議の代表として選出された。会議では南北間の内戦を回避するための妥協が議論されたが、講和が失敗に終わると、南部諸州により正式にアメリカ連合国が発足した。デイヴィスはアメリカ連合国臨時議会の代表も務め、その後の連合国議会では上院議員を務めた。 デイヴィスは1862年から1864年まで2期にわたって上院議員を務め、上院金融委員会、上院海軍委員会、上院請求委員会、両院建築委員会の委員を務めた。上院請求委員会では議長を務めた。 1863年10月、デイヴィスは辞任したトマス・ワッツの後任としてアメリカ連合国司法長官への就任を打診された。しかしながら病気の妻の死などの個人的事情によりその任を直ちに受諾することはできず、司法長官はウェイド・キースによって代行された。デイヴィスはその後1864年1月に司法長官に着任し、連合国が終焉を迎える1865年4月まで司法長官を務めた。 デイヴィスは司法長官として徴兵令の合憲性、輸出および輸入に関する契約の適法性、政府による財産の差し押さえや資材貯蔵に関する法的責任などの問題について、合計で75の意見書を起草した。 南北戦争終結後、デイヴィスはフロリダ州からバハマ諸島を経由してイギリスへ亡命することを試みた。だが数ヶ月間の逃亡の末、1865年10月18日にフロリダ州キーウェストにおいて合衆国軍によって拘束された。デイヴィスはニューヨーク州ブルックリンのハミルトン砦に収容され、翌1866年に恩赦を受け釈放された。
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南部連合
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「ウィリアム・モンタギュー・ブラウン」の記事における「南部連合」の解説
1861年、ブラウンは友人のハウエル・コブとともにジョージア州アセンズへ移った。そしてアメリカ連合国臨時議会が開催されたアラバマ州モンゴメリーおいて、コブの仲介でジェファーソン・デイヴィスと知り合った。デイヴィスは連合国陸軍の義勇兵募集に関連してデイヴィスの個人スタッフとなり、デイヴィスが連合国初代大統領に選出されると、ブラウンは連合国国務省に入省した。 1862年2月、ロバート・ハンターがアメリカ連合国国務長官を辞任すると、デイヴィス大統領はブラウンを臨時代行として指名した。ブラウンはジュダ・ベンジャミンが正式な後任として決まるまでのおよそ1ヶ月間、国務長官代行を務めた。またその間、連合国下院との緊密な連携の必要性が高まってきたことから、2月20日にブラウンは国務次官補に指名された。 1862年4月、デイヴィス大統領はブラウンを国務次官補から大統領補佐官に配置換えし、周辺体制の強化を図った。1864年11月、デイヴィス大統領はブラウンを暫定的に准将に指定し、ジョージア州サバンナの防衛に当たらせた。ブラウンはヒュー・マーサー准将の下で戦ったが、合衆国将軍ウィリアム・シャーマンの進撃の前にサバンナは陥落し、翌1865年、ブラウンは合衆国軍により拘束された。
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南部連合
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「ジュダ・ベンジャミン」の記事における「南部連合」の解説
1861年2月25日、連合国臨時議会で初代大統領に選出されたデイヴィスは、ベンジャミンを司法長官に指名した。デイヴィスはベンジャミンについて「非常に評判の良い弁護士であり、(連邦議会の)上院では明晰な判断力、規律正しい習慣、職務の遂行力を発揮していた。彼の有能さは、私に大きな感銘を与えた」と評価した。ベンジャミンは南部連邦でも高い能力を発揮し、「連合国の頭脳」と賞賛された。 南北戦争が激化した1861年9月、ベンジャミンは司法長官を退き陸軍長官代行に就任した。そして同年11月に正式に陸軍長官として承認を受けた。ベンジャミンは連合国の軍事情勢に対する民衆の批判の矢面に立ち、ピエール・ボーレガードやトマス・ジャクソンら連合国将軍らとしばしば揉め事を起こした。 1862年2月、連合国がさしたる戦いもせずロアノーク島を喪失すると、ベンジャミンに対する民衆の批判は頂点に達した。ロアノーク島の防衛放棄は軍の人員不足が原因であったが、ベンジャミンはこれを公にはせず、議会の非難決議を甘んじて受諾し、陸軍長官を辞職した。その後1863年3月、デイヴィス大統領はベンジャミンの忠誠に対する報酬として、ベンジャミンを国務長官に任命した。 ベンジャミンの国務長官としての任務は、イギリスを連合国の味方につけることであった。1864年、連合国の戦況が絶望的になると、ベンジャミンは兵役を志願する奴隷を解放し、軍へ入隊させようという計画を公然と提唱した。この計画は奴隷制を嫌悪するイギリスの世論を軟化させ、さらに兵力不足を緩和するものであったことから、法案の発議者には陸軍大将ロバート・リーも加わった。だがこの法案は保守派の強硬な反対に晒され、議会を通過したのは首都リッチモンドが陥落した1865年4月であった。このため実際に解放され、連合国で兵役に就いた奴隷は1人も居なかった。
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「南部連合」の例文・使い方・用例・文例
- 南北戦争中の南部連合軍の、または、南北戦争中の南部連合軍と関係がある
- 南部連合の最初の旗
- 南部連合側は攻撃に備えた
- 南部連合軍は灰色の大集団だった
- アメリカ南部連合国の支持者
- アメリカ南北戦争時の南部連合国軍の軍人
- 米国の無法者で、南部連合の兵士として戦い、後に無法者の集団を率いて西部で列車や銀行から略奪していたが、一味のメンバーにより殺害された(1847年−1882年)
- アメリカ人の司令官で、南北戦争で南部連合軍を率いた(1807年−1870年)
- アメリカ南部連合の将軍で、ゲティスバーグで破滅的な突撃を指揮したことで知られる(1825年−1875年)
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