宇都宮都市圏とその周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:09 UTC 版)
栃木県最大の都市であり、北関東随一の商工業都市である宇都宮(人口約50万人、人口密度1470人/平米)を中心とする地域。宇都宮市・日光市・塩谷郡・河内郡・芳賀郡・真岡市・鹿沼市・上都賀郡の人口は約100万人。東北新幹線、宇都宮線、東武日光線、東北自動車道、北関東自動車道をはじめとする数多くの交通網が整備されている。南東平野部には北関東工業地域の工業団地(清原・芳賀・平出・真岡)が造成され工業化が進んでいる。北西の山地部と各都市部には歴史的財産(日光東照宮、輪王寺、日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社、益子西明寺など)および日光国立公園などの天然資源(奥日光・鬼怒川温泉など)を基盤とする観光施設、文化施設(栃木県立美術館・宇都宮美術館など)やレジャー施設(東武ワールドスクウェア・日光江戸村・ツインリンクもてぎなど)を配している。大規模商業施設は宇都宮等の都市域に集中している(東武宇都宮百貨店・トナリエ宇都宮・FKDショッピングプラザ・ベルモール・FKDインターパーク店など)。北関東自動車道は、北関東各県間の物流を強化するため、新4号国道沿線の北関東工業地域と、茨城県と群馬県の三地域を結ぶ形で建設されている。 古代・毛野国(けぬ-)の時代から鬼怒川(毛野川(けぬのかわ))の上中流域に位置し、肥沃な土地を基盤として安定した地域が形成されてきたが、一方でこの豊穣な土地の領有権を巡る抗争の戦場となり、また天正や幕末の動乱期には政権の180度転換を強いられて来た。宇都宮二荒山神社・日光二荒山神社・輪王寺等を歴史的基盤としている。日光の二社一寺(輪王寺・東照宮・日光二荒山神社)は世界遺産に登録されている。 古くは東山道の北側に位置する要害の地であり、遥か京から蝦夷を見据える重要拠点であった。また宇都宮は中道(なかつみち)の最北端に位置し、奥州に抜ける際には必ず通らねばならない要衝であり、下野国一之宮・宇都宮二荒山神社が置かれ、平安~鎌倉期には藤原秀郷卿や藤原北家道兼流・宇都宮氏等、蝦夷対策に中央政府から派遣された武人ないし祭祀が支配権を有した。特に宇都宮二荒山神社の神職者であり、下野国司であった宇都宮氏は、京都の中央政府との繋がりを維持しつつ、鎌倉幕府の有力な御家人として、また室町期~戦国期には時の室町幕府(足利氏)を援護し関東八屋形として、毛野川流域一帯を統治した。また鬼怒川(当時は毛野川)以東は宇都宮氏の郎党・紀清両党が統治し、益子氏の居館があった益子西明寺には宇都宮氏の墓所も現存する。宇都宮氏は終始中央政府に従属し、足利将軍家をはじめ鎌倉府、関東管領上杉氏に従い、戦国時代後期には南関東に台頭した後北条氏を常陸国の佐竹氏とともに牽制し、小田原征伐の後は豊臣秀吉から羽柴姓を授かった。この後、秀吉は時の当主・宇都宮国綱とともに宇都宮城に入城し、この折参陣した東北の大名の処遇を決定した(宇都宮仕置)。この地は引き続き宇都宮氏が統治したが、朝鮮の役の後の1597年、宇都宮氏は突然改易となり、蒲生氏や奥平氏が替って領主となった。 その後、清和源氏を称する徳川家康が征夷大将軍に就き江戸の地に徳川幕府を開くと、江戸のお膝元として繁栄を享受した。江戸時代、家康は自分の廟所としてこの地を選び、その子秀忠は家康を祀って東照宮を建立、さらに孫・家光は東照宮を今日の姿に大造替した。これに伴って、江戸・京・仙台方面から家康の廟所・日光東照宮に参詣するための交通路(日光街道・日光例幣使街道、日光北街道など)が整備され、徳川家・諸大名・京の勅使など当時の要人達が行き交う要衝となると同時に、地域政治の中心地でもあった宇都宮は江戸から那須を経て陸奥国・白河へ向かう奥州街道の分岐点となり、江戸幕府にとって軍事的最重要拠点の一つとなった。宇都宮城は時の領主・本多正純が近代的平城に大改築し、また宇都宮の町は幾重もの堀と周囲に配置された寺社群に囲まれた要塞都市に生まれ変わった。幕末には新政府軍と旧幕府軍との抗争の場となり、戊辰戦争では新政府軍は宇都宮・六道辻から宇都宮城・宇都宮二荒山神社(崇神天皇第一皇子である豊城入彦命を祭祀する)に向け大砲による攻撃を行い、旧幕府軍を掃討した(宇都宮戦争)。この戦闘で二荒山神社社殿は焼失したが、明治年間に政府によって再建された。廃藩置県では宇都宮県、日光県、茂木県、真岡県等を経て栃木県に編入され、1884年からは県都として栃木県地域の行政・経済の中心となっている。
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