当主としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 06:59 UTC 版)
家時の活動の初見は文永3年(1266年)4月24日に被官倉持忠行に袖判下文を与えたことである(田中説に従えばこの時7歳程度であったことになる)。 文永6年(1269年)氏寺である足利鑁阿寺に寺規を定めるなど同寺の興隆に力を注いでいる。寺規を定めるといった行為は家督交替の直後に行われることが多いことから、1266~1269年の間に伯父の家氏が亡くなり、それに伴って家時が名実ともに足利家当主となったとされる。 文永10年(1273年)、14歳の時に常盤時茂の娘との間に嫡男(足利貞氏)を儲ける。同年高野山金剛三昧院の僧法禅と所領を巡って訴訟となって争ったが、弘安2年(1279年)に敗訴している。この為か、幕府に対して批判的になっていったといわれる。その一方で、この裁判の過程で作成された建治2年(1276年)に幕府が作成した裁許状案の文中に「足利式部大夫家時」とあり、当時17歳であった家時が既に式部大夫(従五位下式部丞)であった事が注目される。仮に17歳で叙爵されたとしても、同時期の武家では北条分家の有力者赤橋義宗と同年齢で叙爵を受けていたことになる(これより早いのは北条時宗・宗政兄弟のみ)。更に弘安5年(1282年)11月25日には23歳で伊予守に補任されているが、武家の国守補任においては15歳で相模守となった時宗を例外とすれば最も若かった。しかも、武家での伊予守補任は源義経以来で家時の後も鎌倉時代を通じて北条一門の甘縄顕実のみで、当時の元寇に際して有力武家である足利氏の協力が必要と言う背景があったとしても、幕府からは破格の厚遇を受けていたとする指摘もある。 また、建治元年(1275年)の六条八幡新宮造営の負担金は北条氏に次ぐ金額(二百貫)を割り当てられている。
※この「当主としての活動」の解説は、「足利家時」の解説の一部です。
「当主としての活動」を含む「足利家時」の記事については、「足利家時」の概要を参照ください。
- 当主としての活動のページへのリンク