甲州征伐後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:13 UTC 版)
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。『信長公記』によると、3月7日には上野に侵攻してきた織田勝長を通じて人質を提出し、従属を遂げている。その一方で同月10日、安中氏の所領である郷原(現・安中市)に養子・信定(弟・信高の次男)が攻め込み、領土拡大を目論んだという(『里見吉政戦功覚書』)。上野の有力国衆の中では最も早く織田氏に従属したとみられる。甲州征伐の仕置後は滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信真は氏直に降伏した。その後の天正壬午の乱では北条軍の先手として信濃に出兵した。 その後は北条氏邦の指南を受け、後北条氏配下の他国衆としてその臣下となった。同14年(1586年)まで当主としての活動が確認され、その後養子・信定に家督を譲ったとみられる。同17年(1589年)9月から信定による知行宛行状が発給されるようになる。翌18年(1590年)の小田原征伐では国峯城に籠城し、4月下旬頃には落城したとみられる。その後、武田氏時代を通じて親交があり、小田原征伐で攻城側でもあった真田昌幸を頼り、信濃塩田郷で余生を送った。天正20年(1592年)に死去。享年52。
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