「惣無事令」論への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 06:43 UTC 版)
上記のような文書を「惣無事令」という豊臣秀吉が統一権力として施行した法令と考えることには、竹井英文と藤井譲治から批判がなされている。なぜなら秀吉以前にも、信長や足利将軍をはじめ、権力者が出した停戦令は数多くあったからである。例えば、織田信長は、1582年(天正10年)の甲州征伐後の東国統治において、「惣無事」と称して戦闘停止を命じている。また、「惣無事」という言葉も戦国期を通じて関東などにおいて用いられていたものだった。 また「惣無事令」の根拠となっている文書の多くは、単に秀吉に接触してきた領主たちに対する返書であったり、個別の領主に対する委任に過ぎなかったりするのである。すなわち、従来「惣無事令」とされてきたものは、強力な政権が一方的に領主に対して命じた「令」という性質のものではなく、秀吉が東国の領主たちを支配下に置く過程で彼らに対して行った働きかけの集積にすぎない。それにもかかわらず、それを「惣無事令」と呼び習わすことは、実態に即していないこととなる。 また、藤木が提唱するに当たり行なった各種文書の年代確定にも疑問が呈されている。藤井譲治は「惣無事令」とされる文書が秀吉の関白任官前に発給されたものでないことを指摘した。 さらに藤田達生は、四国国分、北国国分の豊臣政権の境界紛争への介入の実態を検討し、両国分とも境界の一方の側から加担して惣無事ではなく強圧的な軍事力で制圧し、従属させている。九州国分は豊臣政権側が境界を接していない遠隔地だが、名分として天皇権威による惣無事を持ち出して動員による軍事介入をして屈服させている。これら国分のたびに豊臣政権は専制化の進展をすすめ、惣無事とは、戦国大名らへの境界紛争の介入の名分にすぎないと、藤木久志の惣無事論と豊臣平和令論を否定している。
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