「惣無事令」を示す書状の例
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「惣無事令」の記事における「「惣無事令」を示す書状の例」の解説
『島津家文書』344号。天正13年10月2日付島津義久宛書状 (九州での私闘禁止) "就勅定染筆候、仍関東不残奥州果迄被任倫命、天下静謐処、九州事于今鉾楯儀、不可然候条、国郡境目相論、互存分之儀被聞召届、追而可被仰出候、先敵味方共双方可相止弓箭旨、叡慮候、可被得其意儀尤候、自然不被専此旨候者、急度可被成御成敗候之間、此返答各為二者一大事之儀候、有分別可被言上候也" (現代語訳)勅定(帝の命)についてお伝えする。さて関東はもとより奥州の果てまで帝の命に服し、天下は平穏であるのに、九州においては今なお干戈を交えることが発生しており、これは怪しからぬことである。国・郡の境界は協議を行い、双方の言い分は帝に聞き届けられ、追って沙汰があるだろうから、まず敵味方双方ともに弓矢をおさめることこそ、帝の思し召しである。その御意志に沿うことは当然のことであるから、この旨に従わぬ者は、必ずや御成敗なされるであろう。この命に対する返答は各々方には一大事であるから、十分に分別をもって帝に言上なされるが良い。 「秋田藩家蔵文書」13号。「多賀谷修理進」(多賀谷重経カ)宛書状 (関東東北の私闘禁止) "対石田治部少輔書状、遂披見候、関東・奥両国迄、惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候条、不可有異儀候、若於違背族者、可令成敗候、猶治部少輔可申候" (現代語訳)石田治部少輔(三成)の書状について、よく見られたことと存ずる。関東、陸奥・出羽の両国においては、惣無事の令(一切の私闘を禁ずる令)を発令し、この度(徳川)家康を通じて仰せ付けたから、異議のないよう。もしこれに背く者があれば、必ずや成敗する。なお、治部少輔(石田三成)がその旨申し渡してある。 惣無事という表現は2.の段階で現れる。上記の2つは著名であり「日本史史料3」岩波書店などの学術用の日本史史料集に掲載されている。特に2.の「多賀谷修理進」宛書状の年次比定は、惣無事令論の是非に大きな影響を及ぼす。藤木久志は天正15年、鴨川達夫は天正16年とする。一方、粟野俊之・藤井譲治らは天正14年に比定している。
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