佐竹氏義とは? わかりやすく解説

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佐竹氏義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 17:25 UTC 版)

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佐竹 氏義(さたけ うじよし、生年不詳 - 永正元年(1504年))は、室町時代後期の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門、山入氏佐竹義藤の長男。義盛の父。

生涯

山入氏は常陸守護佐竹氏の一族であるが代々宗家との抗争を繰り広げており、氏義の父である義藤の代には当主佐竹義舜太田城から追放するなど宗家に対して優位に立っていた。しかし、明応元年(1492年)に義藤が病死すると、宗家との間に和議の気運が持ち上がった。翌1493年にはやはり宗家に反発していた佐竹氏庶流の長倉氏が義舜に攻められ降伏、さらに氏義と協力関係のあった江戸通雅・小野崎親通らが離反するなど、山入氏は全盛時の勢いを失いつつあった。

しかし氏義はあくまで義舜との対立に固持しており、和議の条件とした太田城の返還を行なわず、文亀元年(1502年)には義舜の居城金砂城を攻めた。この戦いで氏義は義舜を自害寸前まで追い詰めたが、義舜が天候の変化に乗じて反撃に出たために山入勢は散々に打ち破られて撃退されてしまった。

その後、義舜は岩城氏の後援を得て体勢を立て直す一方で、氏義の劣勢は決定的となり徐々に本拠地太田城に追い詰められていった。

永正元年(1504年)、遂に義舜は山入氏に止めを刺すべく太田城に攻め込んだ。籠城戦の末に太田城は陥落し、氏義と子の義盛は捕えられ、茂木栃木県)で斬られた。氏義らを捕えたのは山入氏庶流の小田野義正と伝えられる。

死後

氏義らの死によって佐竹与義の代から5代約90年にわたって続いていた山入氏の反乱はようやく終結した。山入氏はここに滅亡したが、小田野氏・高柿氏・国安氏などの庶流は生き残り、佐竹宗家の家臣として存続している。

墓所

長福時(茨城県久慈郡)に氏義の墓が存在する。

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