上杉謙信の登場と小山氏とは? わかりやすく解説

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上杉謙信の登場と小山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)

小山氏」の記事における「上杉謙信の登場と小山氏」の解説

永禄3年1560年)の長尾景虎(後の上謙信)の関東出兵によって、関東地方ありさま激変する関東管領上杉憲政奉じて関東出陣してきた長尾景虎は、上野国国内北条方の諸城鎧袖一触粉砕すると、永禄4年1561年)には、関東全域をとばし、北条討伐の軍を起こす。そのに応じて参集してきた関東諸将率いて北条氏本拠地である小田原城進み、これを包囲するなどした。そして、上杉憲政から上杉苗字関東管領職を譲られ長尾景虎改め上杉政虎その後輝虎謙信改名)と名乗った小山氏ではこれに対応して、反北条であった高朝の主導のもと、上杉軍参加し足利晴氏嫡子足利藤氏公方就任にともない上杉謙信足利藤氏関東支配参加した上杉謙信の関東出兵によって関東には足利藤氏上杉謙信という支配体制と、足利義氏北条氏康という支配体制並存するようになる結果小山氏もそれらの対立巻き込まれる。高朝の三男で、秀綱の弟で結城氏継いだ結城晴朝結城氏方針である足利義氏北条氏康体制支持明確にし、小山高朝、秀綱路線対立することになる。 上杉氏北条氏対立の中で、小山氏翻弄されていく。上杉謙信関東進出してくると、上杉氏従い上杉謙信越後帰国すると、北条氏攻勢怯え屈服するという状況続いたこのころ小山氏平安時代以来名門の力も、鎌倉時代武門誇り失われていた。当主秀綱も明確な方向性見出せない状況続き家臣団北条派と上杉派に分かれるなど、小山氏惣領制度、支配体制にも大きな問題生じていた。

※この「上杉謙信の登場と小山氏」の解説は、「小山氏」の解説の一部です。
「上杉謙信の登場と小山氏」を含む「小山氏」の記事については、「小山氏」の概要を参照ください。

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