上杉謙信の関東進出と第一次関宿合戦とは? わかりやすく解説

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上杉謙信の関東進出と第一次関宿合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/14 07:25 UTC 版)

簗田晴助」の記事における「上杉謙信の関東進出と第一次関宿合戦」の解説

永禄3年1560年)、自国亡命してきた上杉憲政復帰させる名目越後国長尾景虎(後の上謙信)が関東進出小田原城の戦い)すると、状況一転する同年死去した足利晴氏後継古河公方には嫡男足利藤氏就任すべきと考え景虎は晴助に自軍への参加求め景虎と晴助は同盟結んだ。これを知った足利義氏千葉胤富頼って関宿城脱出し空城となった関宿城には晴助が戻り古河城には景虎によって古河公方擁立された足利藤氏入った続いて景虎上杉憲政要請受けて関東管領上杉氏相続し上杉政虎名乗るが、氏康は甲相同盟により信濃侵攻において謙信対峙する武田信玄交互に出兵し、謙信本国越後帰還せざるを得なくさせる反撃開始し永禄5年1562年)には古河城落とされ足利藤氏は捕えられた。 永禄8年1565年)、前年第二次国府台合戦における里見氏勢力の衰退によって後顧の憂い無くした北条氏康太田氏資と共に関宿城攻めた。晴助は巧み伏兵でこれを撃退し上杉謙信常陸国佐竹義重が晴助救援のために出兵する北条軍撤退した第一次関宿合戦)。その後、晴助と氏康の間で講和話し合い持たれたものの、合意には至らなかった。 また、この頃に甥・相馬整胤治め守谷城介入して整胤の義兄高井治と共に親北条派の重臣排除した。だが、これに満足しない治胤は整胤を暗殺して自らが相馬氏当主になったために、激怒した晴助はこれを攻めたが、治胤が一転して足利義氏北条氏結んで支援受けたために失敗終わった

※この「上杉謙信の関東進出と第一次関宿合戦」の解説は、「簗田晴助」の解説の一部です。
「上杉謙信の関東進出と第一次関宿合戦」を含む「簗田晴助」の記事については、「簗田晴助」の概要を参照ください。

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