上杉謙信の霊柩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 13:14 UTC 版)
戦国武将の中でも聖将として名高い上杉謙信は、その死後も上杉家の精神的支えとして大切に祀られてきた。遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。上杉景勝が越後から会津に移動の際も、春日山城不識庵より謙信の霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと伝えられる。さらに越後より会津、そして米沢に至る上杉家の領国替えの時も、謙信の霊柩は選ばれた僧侶その他の者により厳重に守られ運ばれた。米沢入りを果たしてからは、米沢城の本丸の高台に御堂(霊廟)を建立して、中央に謙信霊柩、その左右の脇陣に善光寺如来像と泥足毘沙門天像を共に西向きに安置した。 以後、上杉景勝の命により大乗寺、法音寺など真言宗寺院の能化衆が、毎日の供養を欠かすことなく厳修した。その内容は、実に厳しく定められていたようである。それは明治を迎えるまで厳格に行われた。歴代の上杉家当主も、命日には精進を心がけ参拝供養したと伝えられる。謙信は生前、真言密教に深く帰依し、自らも権大僧都の位を得ている。その関連からか、謙信の遺骨は高野山に納められており、米沢にあるのは分骨であるともいうが、これは景勝以降の藩主が火葬した遺骨を高野山に納めたことからの誤伝である。 明治になって、米沢城本丸から謙信の霊柩は上杉家廟所に、善光寺如来と毘沙門天像は法音寺に移ったが、当時の御堂は同米沢市の長命寺に本堂として移築され、現存している。
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