織田信治とは? わかりやすく解説

織田信治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/16 05:56 UTC 版)

 
織田 信治
時代 戦国時代
生誕 天文14年(1544年
死没 元亀元年9月20日1570年10月19日
改名 九郎(通称
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:不詳
兄弟 信広信長信行信包信治信時信興秀孝秀成信照長益長利お犬の方佐治信方室→細川昭元室)、お市の方浅井長政継室→柴田勝家室)
柘植正俊
テンプレートを表示

織田 信治(おだ のぶはる)は、戦国時代武将織田信秀の五男とも七男とも伝わる[1]織田信長の弟。子に柘植正俊。尾張野府(野夫)城主。

生涯

兄・織田信長に従って野府城(現在の一宮市立開明小学校付近が城址)を与えられていた[1]

元亀元年(1570年)9月19日未明、浅井・朝倉連合軍が宇佐山城に迫ってきた際、信治は京都から2000の援兵を率いて救援に駆け付けた(『来迎寺要書』)[2]。9月20日、森可成青地茂綱と共に宇佐山城から出て浅井長政朝倉義景の連合軍と近江坂本で戦ったが(宇佐山城の戦い)、衆寡敵せず可成、茂綱と共に戦死した(『信長公記』)[1][2][3]。享年27[1]

子の柘植正俊江戸幕府旗本となった[1]。野府城主の座は津田元嘉が継いだとされる[4]

脚注

  1. ^ a b c d e 西ヶ谷 2000, p. 230.
  2. ^ a b 岡田 1999, p. 121.
  3. ^ 阿部 & 西村 1990.
  4. ^ 岡田 1999, p. 153.

参考文献


織田信治(おだ のぶはる)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「織田信治(おだ のぶはる)」の解説

通称九郎信長の弟。浅井長政軍の急襲を受け、森可成とともに防戦するも叶わず戦死した

※この「織田信治(おだ のぶはる)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「織田信治(おだ のぶはる)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「織田信治」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田信治」の関連用語

織田信治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田信治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田信治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのセンゴク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS