織田信清 (戦国武将)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 織田信清 (戦国武将)の意味・解説 

織田信清 (戦国武将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/11 03:00 UTC 版)

 
織田 信清
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 信清→犬山鉄斎(号)
別名 通称:十郎左衛門、下野守
幕府 室町幕府
主君 織田信安信長甲斐武田氏
氏族 織田弾正忠家(犬山織田氏)
父母 父:織田信康
兄弟 信清広良信正[1]織田信張正室ら
織田信秀娘・犬山殿
津田信益、玄貞、玄信、柘植長定?、藤堂高虎養女、織田信雄養女
テンプレートを表示

織田 信清(おだ のぶきよ)は、戦国時代武将犬山城主。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。津田姓も名乗り、津田鉄斎犬山鉄斎と称した。

略歴

織田信康の子として誕生した。父・信康が「織田伊勢守家」当主の織田信安の後見人となっていたことからその配下となっていたが、伯父信秀死亡後は、犬山城で独自勢力として行動する。

信清が領地を押領したため険悪な状態となっていた従兄弟の信長より姉(犬山殿)を貰い受けると、弟の広良同様信長に仕える身になった。

永禄元年(1558年7月12日浮野の戦い岩倉城攻略で信長を支援したが、追放された織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、永禄5年(1562年)反旗を翻し、楽田城を奪う。しかし、攻勢を強めた信長軍によって支城を次々に攻め落とされ、永禄7年(1564年5月には居城の犬山城も陥落し、遂に信清は甲斐国へと逃亡、甲斐武田氏の許で犬山鉄斎と称した。

系譜

脚注

  1. ^ 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学図書館蔵
  2. ^ 生駒則正の曾祖父・範親の兄



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田信清 (戦国武将)」の関連用語

織田信清 (戦国武将)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田信清 (戦国武将)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田信清 (戦国武将) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS