第二次選挙法改正とブリテン労働者
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「第一インターナショナル」の記事における「第二次選挙法改正とブリテン労働者」の解説
一方、イングランドでは1859年のロンドン建築工ストライキに代表される労働時間短縮運動が、重大な政治危機をウェストミンスターの議会に投げ込んでいた。この闘争は選挙権拡大による熟練労働者の発言権獲得に焦点が収斂されていく。1865年、長らく政界に強い影響力を及ぼしたパーマストン首相が急死したが、この年結成された改革連盟は、非常に狡猾な方策で選挙法改正を決定的なものに導いていく。改革連盟の指導者エドマンド・ビールズ(英語版)はハイドパークでの集会の自由など衝突点をロンドンの労働者に提供して、グラッドストンを自陣に引き込む周到な政治戦術を弄して保守党政権を翻弄した。かくして、ダービー内閣の中核をなしていたディズレーリやスペンサー・ウォルポールを追い込み、都市選挙区で戸主参政権の導入をもたらし、選挙法改正を未曾有の規模で実現させる。IWAの名誉職についたブリテンの労働組合主義者は時局を最大限に活用して大勝利を収めた。第二次選挙法改正(英語版)の結果、イングランドでは熟練労働者100万人が選挙権を獲得し、有権者構成の過半数を労働者が占めるようになった。これ以降議会が労働組合の利害や関心に譲歩することが民主主義の命脈を維持する生命線になっていったのである。 しかし、第二次選挙法改正とその後に続く1871年労働組合法(英語版)の制定によって労働組合指導者の目的は達成されていくようになり、彼らは徐々にIWAからの離脱を図るようになっていく。こうして、ブリテン勢力はIWAから実質的に撤退した。また、1869年には最後のチャーティスト指導者アーネスト・チャールズ・ジョーンズ(英語版)が若くして急死しており、マルクスとブリテンの関係はいよいよ冷え切ったものとなってしまった。マルクスがドイツの知人にジュネーヴ大会について宛てた手紙では、選挙法改正運動とその中核である「改革連盟」に言及して、「わが中央評議会(ここで私は大いに参加してきましたが)が生命を吹き込んだ当地の改革運動は、いまや巨大な抵抗しがたい規模に広がりました。私はいつも舞台裏にいましたが、運動が軌道にのってからは、もうこれ以上かかわらないことにしています。」と語っている。 こうした脱力にも似たマルクスの述懐には理由があった。1867年の『資本論』公刊を前に執筆活動の追い込みに入っており、それどころではなかったということも理由の一つである。だが、もう一つの理由は当時の労働者が「ノー・ポリティクス」という立場を堅持していたことにあった。マルクスと同時代期を生きたある機械工合同組合(英語版)会員の機械工トマス・ライト(英語版)は1868-73年にかけての執筆期間を通じて、『労働者階級の諸々の風習と様々な習慣』、『偉大な下層民』、『新しい主人』という著作を世に送り出し、自身の書で「知的な職人たちは権利や尊厳、労働と資本の圧政、普通選挙権などのトピックに関して、明確な思慮もなく話題にする」と著書で言及するなど労働者の躍進を自己否定する立場を表明していた。 1860-70年代のブリテン労働者の保守化(体制内統合)・ブルジョア依存は目を覆うばかりとなっていたのである。かれらは政略的にはIWAに参入して「労働者の声」を利用したとしても精神的には完全に社会主義の思想や理論からは逸脱していたのである。こうした傾向が支配的になるにつれて、政治的にも社会的にもブリテン労働者のプロレタリアート階級としての自立性はますます低下していった。改革連盟の政治方向が社会主義との合流ではなく自由党への提携へと明確になっていくことで、ブリテン労働組合主義とマルクスとの分裂は必然不可避のものとなっていったのだ。かくしてチャーティスト運動以来の悲願であった、ブリテンの労働組合主義と社会主義との統合の試みは再び立ち消えとなった。 「改革連盟」、「ベンジャミン・ディズレーリ」、および「ウィリアム・グラッドストン」も参照
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