ブリテン労働組合主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:34 UTC 版)
「第一インターナショナル」の記事における「ブリテン労働組合主義」の解説
チャーティスト運動は1850年代に崩壊しており、革命的な社会運動は大英帝国による世界支配の完成とともに姿を消していた。しかし、ブリテンの労働組合運動は極めて活動的で次第に政治への影響力を獲得していった。優れた技能をもつ熟練労働者であった大工のロバート・アップルガース(英語版)やオッジャー、クリーマー、煉瓦積職人のジョージ・ハウエル(英語版)といった人物が有力となっていた。彼らは合同組合(英: Amalgamated Society)という呼称をもった新モデル組合(英語版)を結成し、ストライキより共済制度を重視したこの新型の労働組合を支えるようになっていた。 政治的権利の獲得や労働条件の改善を重視し、改革連盟や労働組合会議などの組織を結成していた。労働時間の短縮を掲げて活動を始め、やがて選挙権の拡大や労働法の整備、労働組合や闘争活動の合法化を要求するようになっていたものの、運動戦術の要はデモやロビー活動など専ら合法的な活動の展開に置かれ、社会主義の思想や理論に否定的で革命や階級闘争には反対であった。ブリテンの労働組合指導者たちは一般労働者の二倍の賃金を得ていた労働貴族層を支持母体としており、彼らは自由主義に肯定的な姿勢として自由・労働主義(英語版)という立場を採っていて、かつてのチャーティスト運動や科学的な社会理論として登場したマルクス主義とは正反対な性格をもっていた。一九世紀半ばには世紀初頭の急進主義から離れており、議会主義や資本主義の枠を超えず、経済的目標を実現させるために盛んにストライキをおこない、労働条件を向上させることに活動の重点が置かれた。レーニンによれば、当時のブリテン労働組合主義は「チャーティストの気概が欠けており」、アップルガースやオッジャー、クリーマーといった労働運動指導者(ジャンタ)は、急進的なブルジョアと労働者の中間物になりはじめ、資本家はこれを好機として「労働者をブルジョア化しようとした」のである。 その結果、労働運動指導者はIWAを大陸との経済利害の衝突を回避する手段としてしか見ておらず、日和見主義を決め込んでIWAの主導権獲得に関心を全く示さず、活動の発展に対しても消極的な姿勢をとっていった。このため、マルクスとエンゲルスはブリテンの労働組合主義との対立姿勢を強め、この対立は最終的には「決裂」へとつながっていく。
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