ブリテンと平和主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:36 UTC 版)
「戦争レクイエム」の記事における「ブリテンと平和主義」の解説
ブリテンは生来優しく繊細な性格で暴力を嫌っており、作曲の師であるフランク・ブリッジからも平和主義の影響を受けていた。1935年には映画音楽の制作を通して詩人のW・H・オーデンと出会い親交を深めるが、その影響で平和主義の傾向はさらに強固なものになった。オーウェンの影響を強く受けていたオーデンは周囲の者に対してオーウェンの詩を読むことを熱心に勧めており、ブリテンはこの頃にオーデンを通じてオーウェンを理解する手がかりを得ていた可能性が考えられる。そのオーデンは1939年1月にアメリカ大陸に移住し、同年5月にはブリテンも親友ピーター・ピアーズとともにイギリスを離れ、カナダ・アメリカに向かった。同年9月には第二次世界大戦が勃発し、イギリスの友人からは帰国を促す手紙が届くが、ブリテンはさらに数年間アメリカにとどまり続けた。アメリカ滞在中の1940年には日本政府の委嘱により『シンフォニア・ダ・レクイエム』作品20を作曲しているが、この曲についてはブリテン自身が新聞に「私が作品に込めようとしているのは私自身の反戦的信条のすべて」だと寄稿しており、平和主義的な内容や典礼文に基づく楽章タイトルなど、『戦争レクイエム』を予告する作品であると言える。 その後、ホームシックになったブリテンはピアーズとともに1942年4月17日にイギリスに帰国すると、裁判所に対して良心的兵役拒否を申し出た。 私はあらゆる人間の中に神の心があることがあることを信じているので、殺すことはできません。(略)私は人生のすべてを創造行為に捧げてきましたので、殺す行為に加担することはできません。(後略) — ブリテン、デイヴィッド・マシューズ、中村ひろ子・訳『ベンジャミン・ブリテン』、春秋社、2013年12月20日、ISBN 978-4-393-93578-1、92頁より引用(一部省略) この申し出は最終的に1943年5月に認可され、ブリテンは、同じく良心的兵役拒否者となったピアーズとともに「戦意高揚のための音楽家・美術家委員会(CEMA)」のためのコンサートを行った。その一方で、ブリテンやピアーズの友人の中には、従軍し大戦の犠牲となった者もいる。ロジャー・バーニー、デヴィッド・ギルは戦死し、マイケル・ハリディは従軍中に行方不明となった。『戦争レクイエム』は、この3名と1959年に自殺したピアーズ・ダンカリーの思い出に捧げられ、スコアには4人の友人の名前が記されている。 平和主義者のブリテンではあったが第二次世界大戦を扱った作品は決して多くない。第二次世界大戦が終結した1940年代後半には、戦争や暴力に反対する内容の大規模な合唱曲を構想するが、それらは実を結ばず、1955年には、イーディス・シットウェル(英語版)の詩による、ロンドン空襲を扱った『カンティクル第3番「なおも雨は降る」(英語版)』作品55を作曲している。これはブリテンが第二次世界大戦に直接言及した数少ない作品の一つである。
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