アメリカ滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:58 UTC 版)
1938年11月から12月までは、日中戦争の従軍兵士慰問のため中華民国の北部を訪れた。帰国後、翌1939年1月から舞台に復帰したが、この頃から瀧子はファンの視線に対して恐怖を覚え始め、襖の引き手を人の目と誤認したことを皮切りに「アクセントのあるものは全て人の目に見える」といったノイローゼの様相を呈していった。 こうした中、瀧子の贔屓筋である外務省の職員で、アメリカの日本領事館の市川という人物が「世間が狭いからノイローゼになる、治すためには一度あなたの地位を捨てなさい」と瀧子に渡米を勧めた。ちょうど国産航空機「ニッポン号」が、難航路である北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がっており、市川の手配により、ニューヨークに到着した「ニッポン号」乗務員を現地で出迎えるガイドホステスという名目でアメリカ行きが決定。5月4日、「東京踊り」の千秋楽でファンや劇団との惜別が演出されたのち、同11日より「日米芸術親善使節」としてアメリカに赴いた。瀧子を悩ませたノイローゼは「船に乗った途端」治ったという。なお、瀧子はこのとき松竹歌劇から退団したつもりでいたが、公には休演扱いとされていた。 アメリカ到着後は船内で知り合った富豪ケロッグの歓待を受けたのち、サンタバーバラで居候をしながらロサンゼルス近辺で2~3カ月を過ごした。その後、大倉喜七郎の知人であった男性歌手・デビッド黒川と、日系2世の少女を伴い、ルート66を通り車でニューヨークへ向かった。途中、黒川の出身大学があったレッドランズにおいて約2000人を前に舞踊を披露し、現地新聞『ザ・サン』に「日本の民族衣装を着た日本女優、タキコ・ミズノエが描き出した物語は、まったく絵のように美しかった」と賞賛された。なおニューヨークに到着する前には、持病としていた狭心症を発症し1カ月あまり入院、さらに黒川が荷物と金を持ち逃げするといった事件もあった。 ニューヨークに到着し、「ニッポン号」のガイドホステスの務めを終えてからは、在住日本人のサロン化していた目賀田綱美夫妻の家に身を寄せながら、専ら遊び歩いた。当時最新のショービジネスを見聞し、ブロードウェイで観劇をした際には、末端の出演者に至るまで確かな実力を持つことに「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされ、「ニューヨークでああいうのを見なければ、ずっとプロとアマチュアの違いもわかんなかったかも知れないし、とにかく"芸"というものが、初めてわかった」と後に語っている。 瀧子はその後ヨーロッパを巡って世界一周をする予定でいたが、ニューヨーク到着直後の1939年9月1日にドイツによるポーランド侵攻とそれを受けた第二次世界大戦の開戦があり、渡航を断念。その後もニューヨーク生活を続けたものの、第二次世界大戦のヨーロッパ以外への拡大が危惧されたことや、同年9月27日には日本がドイツとイタリアと日独伊三国同盟を締結し、日米間の関係も緊迫し始めたことや、さらに1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、「アメリカ滞在は危険」との勧告が寄せられるようになり、1940年3月に、約10カ月半のアメリカ滞在を終えて日本へ帰国した。
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