アメリカ準州の時代(1850年〜1912年)
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「ニューメキシコ州の歴史」の記事における「アメリカ準州の時代(1850年〜1912年)」の解説
米国議会の1850年協定のため、奴隷制反対の憲法のもとではニューメキシコが正式な州へ昇格することはなくなった。テキサスは、長い境界線紛争に決着をつけて、連邦政府にニューメキシコ東部を移譲した。協定のもとで、アメリカの政府は1850年9月9日にニューメキシコ準州を設立した。現在のアリゾナ州とニューメキシコ州のすべて、およびコロラド州の一部を含むその準州は、1851年、サンタフェを州都として公式に制定された。1850年の合衆国準州ニューメキシコの国勢調査では、ニューメキシコの領土全域に61,547人が住んでいるのが分かった。合衆国憲法の下では、ニューメキシコ住民自身で準州として奴隷制を許可するかどうかを自主的に決めることができた。しかし奴隷制の状態は、準州の時代の間にかなりの議論を引き起こした。州へ昇格できるかどうかは、奴隷制問題でまっぷたつに分割される議会次第であった。スティーブン・A・ダグラスを含む一方は、以前のミズーリ協定のように、準州であるなら必ずしも奴隷制を制限しないと主張した。エイブラハム・リンカーンを含むもう一方は、奴隷制を禁止した以前のメキシコの法の伝統が優先すると主張した。このような議会の状況にもかかわらず、ニューメキシコでは奴隷制はめったに見られなかった。1912年1月6日には、ニューメキシコは最終的に合衆国の一州となった。 ナバホとアパッチによる襲撃と略奪で、キット・カーソンは米墨戦争の後、引退してタオス近くの羊牧場に引っ込むという目論みを捨てることになってしまった。1853年に、カーソンは合衆国のインディアン担当を命じられ、タオスを本部にしてインディアンと戦い、焦土作戦を用いて目を見張るような成功を収めた。 米国は、1853年のガズデン購入によって、州の南西部の「ブーツのかかと部分」と、ヒラ川の下のアリゾナ州南部を取得した。ほとんど砂漠しかないこのエリアを購入した意図は、提案されていた大陸横断鉄道の開通にあった。わずかではあるが、ヒラ川の南に、はるかに簡単なルートが位置しているのが発見されていたのだ。この領土は、グアダルーペ・イダルゴ条約が1848年に交渉された時にはまだ探険されておらず、地図にもされていなかった。サンタ・アナは1853年に再び政権を握り、ガズデン購入によって彼の金庫をいっぱいにして、その年にメキシコ軍に支払うためのお金が必要だった。1881年、サザン・パシフィック社は、この購入された土地に2つめの大陸横断鉄道を建設した。 南北戦争で、テキサスの南軍部隊は、あっけなくニューメキシコ南部を占領したが、北軍は1862年前半に領地を取り戻す。ニューメキシコの部隊は北軍として戦い、キット・カーソンは、第1ニューメキシコ志願兵を組織して命令するのを手伝た。部隊はほかの場所で戦うために後方に引っ込められ、南軍とのヴァルヴァードの戦いへの参加と平行して、ニューメキシコやテキサスのアパッチ族、ナバホ族、そしてコマンチ族らと戦う作戦に従事した。南部同盟の軍は、北軍の常勝部隊であるコロラド志願兵(パイクス・ピーカーズと呼ばれる)とニューメキシコ志願兵に、グロリエタの戦いで敗北し、後退した。1863年に、アリゾナ準州は別々の領土に引き裂かれた。 1875年、カトリック教会は大司教の拠点を創立した。1879年には、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が、サンタフェから16マイル(26キロ)の町、ラミーにまで延び、1880年にはサンタフェに到達して、物語によく出る道、サンタフェ・トレイルに取って代わった。1880年にサンタフェ鉄道がさらに西に伸延されたことで接続した新しい町、アルバカーキは、古い町であったものが急速に発展した。 鉄道の登場で、1880年代には大放牧ブームが起こり、牧牛地帯の町の開発は進んだ。無法者で有名なビリー・ザ・キッドも登場した有名な事件、リンカーン郡戦争のように、牧畜業者たちは、お互いに、そして当局に対して意地を張り合った。大牧場主たちは羊飼いを追い出すことができずにいて、結局農場所有者たちと不法入居者たちは、牛が食べる「草の海」をフェンスで囲い、その土地を破壊することで牧畜業者を圧倒した。各人の土地の要求についての闘争は、もともといたスイン人住民、牛の牧場主、新の農場所有者の間の痛烈な口論に発展した。破滅的な過放牧であったにもかかわらず、放牧はニューメキシコの経済の大黒柱として生き残ったのだった。 何世紀も続いたアパッチ族とナバホ族の闘争は、土地を苦しめた。1860年から1861年のロング・ウォーク・オブ・ナバホ(またはロング・ウォーク・オブ・ボスケ・レドンド)では、ナバホを厳しく鎮圧し、彼らの襲撃を終わらせた。1868年、ナバホ族の大部分は故郷への帰還を要求し、彼らの保留地(Reservation)に帰った。一方、アパッチ族による散発的襲撃は、1886年にアパッチ族のジェロニモが最終的に降伏するまで続いた。 リオ・グランデ川上流のアルバカーキは、1889年に合併された。
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