松竹歌劇
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1930年4月、東京六大学野球をレビュー化した「松竹座リーグ戦」で注目を集める。1932年には「幹部」に昇格。1933年6月、劇団音楽部員と経営陣の軋轢が、女生(団員)と劇団間の労働争議に発展し「桃色争議」が起こる。津阪は争議団に与することなく、妥結後に謹慎処分となった水の江に代わり、新生松竹歌劇いおいて『アベック・モア』ほかに主演したが、舞台に活気を欠く結果となった。水の江復帰後に上演された『タンゴ・ローザ』は松竹レビューの最高傑作と評され、「ターキー、オリエ」は松竹歌劇の両輪として活躍する。同年10月に上演された『凱旋門』では「アンドレー」役が当たり役となり、1935年には『シャンソン・ダムール』でも好演を謳われた。1940年9月には80余名の女生が動員された台湾公演の座長を務め、9都市で公演を行った。在団中から舞台のほか映画にも出演しており、1936年には水の江ら松竹歌劇の面々と共に『男性対女性』にゲスト出演。1939年の映画『菊水太平記』では主演を務めた。 1939年に発表された団員の序列では、水の江に次ぐ第2位に記名されている。津阪と水の江は対照的な個性を持ち、洋舞を得意とし西洋的な柄が合っていた水の江に対し、日舞が売りの津阪は和物の若衆姿などが似合いとされ、ファンも二分されていた。『古川ロッパ昭和日記』の1934年1月13日の項には、松竹座で水の江のファンが「ターキー、ターキー」と掛け声を発すると、これに対抗した津阪のファンが「ツサカ、ツサカ、オリエ、オリエ」と応じる様子が描写されている。また同時代を舞台とした向田邦子の小説『あ・うん』にも、時代感を醸す要素として「相弟子と三人五人連れ立って、ターキーとオリエ津阪とどっちが好きかなどとしゃべりながら、蜜豆を食べたりするのだが」という一文がある。両者と同時代に宝塚歌劇のスターだった葦原邦子は、水の江には宝塚のスターにはない独特の魅力があったのに対し、津阪は「日本的な感じ」だったと評している。また津阪自身は「私の役柄はどなたも憂愁の貴公子的なものが似合うように思はれてゐますし事実私の性格も地味で淋しい方ですが、自分ではむしろ三枚目の方が好きなのです」と述懐し、思い出の作品にも三枚目を演じた『ライラック・タイム』(1939年)を挙げている。一度代役で三枚目を演じた際に演出家の青山圭男から好評を得、以後しばしば「二枚目半」を演じたこともあった。
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