松竹歌劇とは? わかりやすく解説

松竹歌劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:33 UTC 版)

オリエ津阪」の記事における「松竹歌劇」の解説

1930年4月東京六大学野球レビュー化した松竹座リーグ戦」で注目を集める1932年には「幹部」に昇格1933年6月劇団音楽部員と経営陣軋轢が、女生団員)と劇団間の労働争議発展し桃色争議」が起こる。津阪は争議団与することなく妥結後に謹慎処分となった水の江に代わり新生松竹歌劇いおいて『アベック・モア』ほかに主演したが、舞台活気を欠く結果となった水の復帰後に上演された『タンゴ・ローザ』は松竹レビュー最高傑作評され、「ターキーオリエ」は松竹歌劇の両輪として活躍する同年10月上演された『凱旋門』では「アンドレー」役が当たり役となり、1935年には『シャンソン・ダムール』でも好演謳われた1940年9月には80余名女生動員され台湾公演座長務め、9都市公演行った。在団中から舞台のほか映画にも出演しており、1936年には水の江ら松竹歌劇の面々と共に男性対女性』にゲスト出演1939年の映画菊水太平記』では主演務めた1939年発表され団員序列では、水の江に次ぐ第2位記名されている。津阪と水の江は対照的な個性持ち洋舞を得意とし西洋的な柄が合っていた水の江に対し日舞売りの津阪は和物若衆姿などが似合いとされ、ファン二分されていた。『古川ロッパ昭和日記』の1934年1月13日の項には、松竹座水の江のファンが「ターキーターキー」と掛け声発すると、これに対抗した津阪のファンが「ツサカ、ツサカ、オリエオリエ」と応じ様子描写されている。また同時代舞台とした向田邦子小説『あ・うん』にも、時代感を醸す要素として「相弟子三人五人連れ立ってターキーオリエ津阪とどっちが好きかなどとしゃべりながら、蜜豆食べたりするのだが」という一文がある。両者同時代宝塚歌劇スターだった葦原邦子は、水の江には宝塚スターにはない独特の魅力があったのに対し、津阪は「日本的な感じ」だったと評している。また津阪自身は「私の役柄はどなたも憂愁貴公子的なものが似合うように思はれてゐますし事実私の性格も地味で淋しい方ですが、自分ではむしろ三枚目の方が好きなのです」と述懐し思い出作品にも三枚目演じた『ライラック・タイム』(1939年)を挙げている。一度代役三枚目演じた際に演出家青山圭男から好評を得、以後しばしば「二枚目半」を演じたこともあった。

※この「松竹歌劇」の解説は、「オリエ津阪」の解説の一部です。
「松竹歌劇」を含む「オリエ津阪」の記事については、「オリエ津阪」の概要を参照ください。

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