桃色争議
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桃色争議(ももいろ そうぎ)は、1933年(昭和8年)、松竹少女歌劇部(後の松竹歌劇団)・松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)で発生した労働争議をいう。中心人物である水の江瀧子の愛称にちなんだ「ターキー・ストライキ」の異称もある。
経過
1932年(昭和7年)、松竹はこの年4月、浅草で起こった映画活弁士、楽士の首切り闘争で一定の勝利を収めた(前年に松竹は日本初の本格トーキー「マダムと女房」を公開している)。翌1933年(昭和8年)に至り、今度は松竹少女歌劇部に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告した。
同年6月14日、「レビュー・ガール」と呼ばれ少女歌劇部の大部をなす少女部員が新聞記者らを集めて「絶対反対」の意思を明らかにし、同部の誇る18歳のトップスター水の江瀧子を争議委員長に、津阪織江(後のオリエ津阪)を副委員長に任命した。前年の活弁闘争に勝利した松竹がこれに応じないことは火を見るよりも明らかであったから、水の江以下少女部員230名は翌6月15日、神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもってしまった。津阪はスト崩しを画策した城戸四郎常務の申し出を受け、松竹側についた[1]。
一方、大阪においては松竹楽劇部が、待遇条件の改良要求が拒否されたことから会社側と一触即発の状態になった。楽劇部員たちは一番人気の飛鳥明子を争議団長に据え、舞台をサボタージュしたうえ、遂に6月28日、三笠静子(後の笠置シヅ子)、美鈴あさ子(後のアーサー美鈴)、秋月恵美子、芦原千津子ら70余名の部員が高野山の一宇に立てこもり、弘法大師(空海)ゆかりの霊峰に「トラスト反対」などと大幕をひるがえして演説をぶち、参詣客の度肝を抜いた。
松竹はただちに水の江を「賊女」と呼んで懲戒解雇に処し、争議団の自然崩壊を待った。しかしなにぶん女性、しかも未成年で幅広く大衆に知られた有名人であるから、世論の同情は彼女らに傾きがちで、それにのった新聞各紙も徐々に松竹の態度に異を鳴らし始めた。一時は水の江を拘禁した警察もすぐ解放した。また経営する劇場や舞台の観客動員が落ち込み、却って不倶戴天の仇敵宝塚少女歌劇団の隆盛を助けるという、松竹にとって極めて不愉快な状況を呈してきた。
少女たちに追い風が吹くなか、大阪では7月8日手打ち式が行なわれ、7月15日東京で「協定文」が読み上げられて、飛鳥は退団、水の江が謹慎となったものの、週休制と最低賃金の設定に成功した争議団側の勝利に終わった。
参考文献
- 『記録現代史』筑摩書房
脚注
関連人物
- 小倉みね子 ‐ 松竹の要求を受け入れ組合を除名。
- 西条エリ子 ‐ 争議に参加せず組合を除名。
- 江戸川蘭子 ‐ 争議指導者として謹慎処分にあうが復帰。
- 三浦たま子 ‐ 争議を機に歌劇部を離れ堺駿二と結婚。堺正章の母となる。
- 森寅雄 ‐ 社会部記者として桃色争議を担当。
関連項目
桃色争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:58 UTC 版)
1931年10月、東京での人気定着を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で公演を行い、これに対抗した東京松竹も築地川対岸の東京劇場で『らぶ・ぱれいど』を上演、東西レビュー劇団の対決的図式は巷間の注目を集めた。この公演は松竹、宝塚ともにファンを満足させたものの、世間で「上品な宝塚、大衆的な松竹」という対比が盛んに行われたことから、松竹側は経営陣、ファンともに「上流階級志向」を強めていった。この頃、東京松竹楽劇部は組織名を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めている。1932年12月、瀧子は「上流社会向け」に製作された「青い鳥」に出演したが、公演2日を終えた時点で病気になり、以後1カ月間の休演を余儀なくされた。相手役の吉川秀子もほぼ時を同じくして怪我で休演。この直前には劇団機関誌『楽劇』や水の江会のパンフレットに女生(団員)の過重労働を糾弾する内容が掲載されていた。 その後、松竹は1933年5月27日より歌舞伎座で『真夏の夜の夢』を上演していたが、公演が浅草松竹座に移って4日目の6月10日、待遇改善を求める劇団音楽部員と経営陣との間の争議が表面化。12日には音楽部員が瀧子に女生の合流を求めると、瀧子以下の女性もこれに応じ、共産党員も加入して事態は瀧子を委員長とする組織的な労働争議へと発展した。争議団の要求は昇給、各種手当の支給、衛生・設備の改善、公休日の設定等々であった。これに対し経営側は16日に浅草松竹座および本郷・帝劇両練習場を閉鎖し、レビューを廃し浪曲大会を催すと発表。争議団はこれにストライキで対抗した。10~20代の女性を中心とした争議は世間の関心を集め、各紙誌はこれを「桃色争議」と書き立てた。交渉は難航し、7月1日、瀧子は歌劇部を解雇される。同時に経営側は復帰条件を呑んで帰参した女生による8月公演予定を発表。一方、瀧子ら争議団はさらなる切り崩しを防ぐため神奈川県湯河原町の湯河原温泉で立て籠もりを始めた。世間は争議団側に同調し、帰参した女性達を揶揄的に「お詫びガール」と呼び、瀧子らを「頑張りガール」と呼んだ。瀧子は後に「私はスターだったから、一応満足してる立場なのに、みんなと一緒になってやったものだから、同情が集まった」と振り返っている。 7月12日朝、警視庁が争議団本部などを一斉捜索し、思想犯の疑いで争議団長・益田銀三、委員長・瀧子以下46名を検挙。瀧子らは浅草象潟警察署に留置されたが、瀧子を含む35名は即日釈放された。翌13日から交渉が再開されると、17日には「生理休暇」を除くほとんどの条件を経営側が了承する形で争議は妥結された。争議の中で解雇された24名のうち5名は無条件復帰、瀧子を含む残り19名は2カ月間の謹慎処分となった。28日には松竹少女歌劇部が解消され、松竹本社直属の「松竹少女歌劇団」となった。
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