幼少期・中学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 04:18 UTC 版)
東京市本所区太平町1丁目(現・東京都墨田区錦糸町)の桶製造業の家に8人兄弟の末子3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退して11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。小村正雄を芸名とし、子役ながらも殺陣をやらせたり、女形を演じさせても上手にこなすので、伊村から養子を懇望されたという。1932年に帰国していた早川雪洲の一座に弟子入り、堺駿二の芸名を貰う(由来は、「雪洲と栗原の間に境をつけたい」と雪洲が思っていた事に由来。「駿二」は、雪洲の洲(しゅ)に由来)。入門には兄の小柳丸の浪曲家仲間で雪洲の元同級生だった東家楽燕に口利きを頼んだ。雪洲の付き人も兼ね、雪洲から「君は少し足りない役どころのほうがいい」と言われる。早川一座が休演中は南田一郎という名で地方公演に出ていた。この頃、松竹少女歌劇団の新人踊り子だった幹千代子(芸名・三浦たま子)と結婚、千代子は桃色争議をきっかけに2年ほどで歌劇団を辞め、家庭に入る。
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