幼少期、モデルとしての初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 10:15 UTC 版)
「パティ・ボイド」の記事における「幼少期、モデルとしての初期」の解説
サマセットのトーントンにて、コリン・イアン・ラングドン・ボイド (Colin Ian Langdon Boyd) とダイアナ・フランシス・ドライスデール(Diana Frances Drysdale)(1942年8月結婚)の間に産まれる。長女であり、コリン(1946年)、ヘレン・メアリー(1947年、後にジェニーと呼ばれ、ミック・フリートウッドと結婚する)、ポーラ(1951年)の3人の妹がいる。ボイドは彼女自身のお気に入りの人形の名前からヘレン・ジェニーと呼ばれていた 。パイロットであった父が第二次世界大戦での負傷によりイギリス空軍から除隊された後、1948年から1953年の間、ボイドはケニアのナイロビで生活した。両親は1952年に離婚し、母ダイアナは1953年にタンガニーカ(現在のタンザニア)にてロバート・ゲイマー・ジョーンズ (Rober Gaymer-Jones)と再婚。その後2人は4人の子供を連れてイギリスへと帰郷する。夫婦はその後デヴィッド J.B.(1954年)とロバート・ジュニア(1955年)の二人の子供をもうけた。彼らはパティの義兄弟にあたる。パティ自身は修道院付属の寄宿学校に1961年まで所属したのち、1962年にロンドンへ移住。ロンドンでファッション雑誌にスカウトされ、モデルとしての活動を始めた。初仕事はエリザベス・アーデンのシャンプーの宣伝だった。しかし作家のマイケル・グロスの取材では美容師志望のパティはエリザベス・アーデンの経営する富裕層向けのビューティサロンでシャンプー係として勤務していたときに、ファッション雑誌の関係者にモデルになることを勧められたと書かれている。 1962年からファッションモデルとしての活動を開始。ボイドはやや出っ歯であったため、当初はカメラマンたちに受け入れられず、中には「モデルたちはウサギに似てなどいない(ウサギのような前歯のボイドはモデルにふさわしくない)」と言う者までいた。しかし数年の活動を経てモデルとして受け入れられ、ロンドン、ニューヨーク、パリ(マリー・クヮント等)で活躍した。撮影は主にデヴィド・ベイリー(David Bailey)やテレンス・ドノヴァン(Terence Donovan)が行った。 1964年には、ヴォーグのイギリス版およびイタリア版の表紙に登場。ジョージ・ハリスンの恋人になった後は、グロリア・スタヴァーズ (Gloria Stavers) からシックスティーン・マガジンへの連載の話を持ちかけられる。 1960年代の人気モデルであるツイッギーは、1966年にモデル業を始めた際、ボイドのスタイルを参考にしたと発言した。
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